仕事が減った、客が来ないなどと嘆いている暇は、日本にも世界にも無い!

こんばんは。平時に役立つ者が、そのまま非常時に役立つとは限らず、平時に不要と思われていた者が、そのまま非常時にも不要とは限りません。
ウイルス禍で大変な今こそ、誰が真の転換期の指導者なのかがよく見えてきます! これほど人物について学べるときはありません。

◆本号の「評論・随筆」の小見出しです。→内容は下記をご覧下さい。
☆仕事が減った、客が来ないなどと嘆いている暇は、日本にも世界にも無い!
☆自粛のため、孫とベッタリの毎日なり…
☆政治に「守られている感」か、それとも「見放された感」か…

●評論・随筆●

◆仕事が減った、客が来ないなどと嘆いている暇は、日本にも世界にも無い!◆

武漢から世界中に拡散した新型コロナウイルスの猛威が止まらない。いずれ、この感染症の前と後で時代が分けられるのではないかと思うくらい、グローバリズムが当たり前だった世界が鎖国状態に一変した。

現在、感染拡大がいつになったら落ち着くのかに関心が集中している。もう自粛は飽きた、早く元の生活に戻りたいと。だが、厳しいのはむしろ感染が収まってからであり、分野によってはもう元に戻ることは無いと覚悟したほうがいい。

人と物の移動が止まり、経済が停滞することで、大規模な倒産や大量の失業が発生。それが相互依存で成り立っていた世界秩序を崩壊させれば、力の弱い国家から統治不能に陥ってしまう。

そもそも戦争の原因は、古くは食糧と領土の争いにあり、近代では経済活動に必要な資源やエネルギーの調達、並びに市場の奪い合いにあった。第二次世界大戦も、石油や市場の確保に原因が存在した。

今また世界各国は、生き残りに必死となるだろう。最も激しいウイルス感染国となったアメリカは、益々自国ファーストとなって、世界を指導しようという意識と余裕を無くしかねない。米軍にも感染者が広がっているというから大変だ。

21世紀の世界も、相変わらず「力の原理」で動いている。国際間の動揺・変化によって力の空白が生じれば、必ずそこに別の力が入り込んで来るのだ。現在、情勢の変化に、しっかりと睨(にら)みを利かせているのがチャイナやロシアだ。

特にチャイナには注意したい。チャイナに過度に依存しなければ成り立たないという経済状態は、素直に考えて異常である。サプライチェーンやインバウンドなどに現れた、行き過ぎた海外依存によって、日本国内は衰弱し疲弊する一方だったではないか。

チャイナに諂(へつら)う外交を余儀なくされたのも、経済という生命線を取り込まれていたからだ。それにこの先、チャイナ国内にどんな変動が発生し、体制が動揺するか分からないではないか。

では、どうするか。日本で生産出来る物は日本でつくるのがいい。(この今まで言えなかった当たり前のことが、ウイルス禍で堂々と言えるようになった)。そして、少々高くても国産品を優先的に買うのだ。

混乱が起これば、いかに大都市が息苦しいかということもハッキリした。だから、もっと地方に目を向け、コンパクトシティやスマートシティ(人間生活進化型都市)を建設し、地域経済生態系を甦らせることに取り組もう。とにかく発想を転換し、日本全体を豊かにし、可能な限り国内で経済が回る仕組みを起こすことで、外交にも強い日本をつくるのだ。

それから、インターネットを使った遠隔教育、WEB講義、テレビ会議といったことも、どんどん進むに違いない。一般社団法人・林英臣政経塾でも、既にそれらを取り入れている。綜學院(名古屋・京都、来年から東京)林ゼミも、これから遠隔教育を導入していくだろう。

ウイルス感染収束後、元に戻る事と、もう元には戻らない(戻してはならない)事が、政治にも経済にも、生活にもある。このことを腹に据え、よく考察し、地に足を付けた対策に取り組んでいこう。

とにかく、次の文明(共生文明)や次の経済原理(公益経済)に向かって、やるべき事はいくらでもある。仕事が減った、客が来ないなどと嘆いている暇は、日本にも世界にも無いのである。

◆自粛のため、孫とベッタリの毎日なり…◆

祖父は釣りが好きだった。あるとき、遠州灘でフグを何匹か釣ってきた。

料理は祖父と祖母が一緒にやる。4歳くらいの私は、食べさせてくれるのを楽しみに側で見ていた。

ワクワクしていたら「英臣、こっちへおいで」と母から小声で呼ばれた。

台所の外の廊下まで連れて行かれた私は、険しい顔をした母から言われた。「英臣、ヂイヂから「ほれ、食べな」と言われても、フグ食べちゃダメだに」。

「なんでぇ?」と聞いたら、フグは毒があるから絶対ダメだとのこと。

祖父と祖母は、相変わらず楽しそうに包丁を取っている。ふ~ん、ヂイヂとバアバは、これからフグを食べて死ぬつもりなのか…。

それにしては嬉しそうだな。でも、死んでもいいくらい美味しいのかも知れない。そんなことを思いつつ、もうそろそろ死んだ頃かなと緊張しながら、何度も台所を覗いた。

ヂイヂとバアバは、ニコニコして私を見るだけだ。

結局、翌朝になっても生きていた。あれ、フグ食べてもだいじょうぶじゃん?!

昨日、孫が昔の話をしてくれと言うから、このことを思い出しながら話した。そろそろ死んでいるかなと思って何度も覗いた、というところでケタケタ笑ってくれた。

孫がいると、いろいろ思い出せて面白い。自粛のため、孫とベッタリの毎日です。

◆政治に「守られている感」か、それとも「見放された感」か…◆

政治が何かを国民に支給する場合、その出し方が肝腎となる。何を、どのタイミングで、いかなる程度の質と量で給付するか。

それらがズレると、肩透かしを食らったかのようなガッカリ感が世を覆ってしまいかねない。

大事なことは、政治にガッチリ守られているという感覚が、その具体策から生じるかどうかだ。

もしも内容に問題は無いのに「政治に見放された感」が起きたとすれば、一体どこに原因があるのか。

それはトップを取り巻く側近に、そういうデリケートな感覚に対して、ちゃんと気付いて采配出来る人物を得ていないからかも知れない。

庶民感情とズレていき、やる事なす事、裏目に出てしまう。そういう状況を末期症状というのである。

世論やマスコミは、そこをすかさず批判して来る。部分を突いただけの悪口であっても、原因は「見放された感」をつくってしまった側にもあるということを見損なってはならない。

このウイルス禍を乗り越えて雨降って地固まるのか、それとも雨降って崖崩れるのか。

いまトップは疲れ切っている。もっと側近がしっかりして、政府批判したいマスコミにつけ込まれることの無い、安心感のある政治を起こして欲しい。

国民の不安は、どんどん募っていく。あと二か月もしたら、まだ4月頃は良かったねという事態に陥りかねない。

大胆、スピード、そして安心感だ。