その国の将来を知りたければ青年を見よ

こんばんは。今日は遠州日華親善協会の懇談会に参加。
台日駐日経済文化代表処の粘信士閣下もお運び下さった。

◆今から114年前に台湾・屏東県で殉職した曽祖父の供養を、18日(火)ついに済ませることが出来ました。

何と91歳になる古老が、子供の頃に親から聞かされた話を記憶しており、それにより、警官であった曽祖父の最期の場所がピンポイントで判明。その地で、供養祭を執り行ってまいりました。

詳細は、下記ご報告をご覧下さいませ。
台湾のTVニュースにもなりました(約90秒)。
https://www.youtube.com/watch?v=JiCpu2L_fAg&feature=youtube_gdata_player

◆林塾出身者・選挙結果のお知らせ
◎当選:古賀壮志塾士(5期生)東京都日野市議選(2月16日投開票)
28名中第2位当選!(定数24)

◆25日は国会、26日は東京、27日は大阪で講義します。
★初心者向け講座「大和言葉で読み解く日本神話」(東京)
2月26日(水)午後6時30分~8時30分
古事記が示す宇宙の創生と地球の成立とは。
大和言葉は人類の根本言語、日本神話は世界の根本神話なり。
会場:千代田区麹町4‐8麹町高善ビル
会費:5000円(学生2000円)
お申込はこちらへ→ tkkobatake@gmail.com 代表・小林猛さん)

★政経倶楽部連合会・大阪支部研修例会
2月27日(木)開場:午後6時 開始6時半~終了9時
「政経倶楽部が目指すこれから10年」
~21世紀の指針・政経倶楽部3綱領を徹底的に学ぶ~
会場:JSKビル(株)ジェイエスケー 3階研修室
大阪市北区西天満3-5-20 TEL:06-6313-1369
(お車は近隣のコインパーキングをご利用下さい)
地下鉄谷町線・堺筋線「南森町駅」下車、JR東西線「大阪天満宮駅」下車
地下鉄2番出口より西(左)へ徒歩3分
会費:会員2000円 ビジター2000円(お食事・お弁当代含む)
連絡先:090-3050-6935(大阪支部幹事長・阿部さん)
Mail info@seikei-club.jp
URL  http://www.seikei-club.jp

●日記● 平成26年2月14日~19日

★☆その国の将来を知りたければ青年を見よ

2月14日(金)、神戸・今啓林会で「日本学」の最終回を講義。
林塾から福丸塾士、布田塾士、大久保塾士補が参加。

フィギュア男子、羽生結弦選手の金メダルおめでとう。
フリー前半は転倒もあって苦戦したが、諦めることなく後半の演技で取り戻した。その精神力に本当に心服する。

アイスリンクに出入りする際の礼節といい、観衆への礼儀といい、実に姿勢が素晴らしかった。合掌して採点を待つ様子も良かった。

まだ19歳。後生畏るべし。

分野は違えども、綜観(林)の講義を聞いてくれる青年たちもいい。
神戸の講座は、参加者の7割が10代から20代だった。

熱意、知力、感性、いずれも高い。礼儀正しいし、素直さや他者への思い遣りもある。

その国の将来を知りたければ青年を見よと言う。
これからの日本が楽しみでならない。

2月15日(土)、岡山アイナリーホールで「日本学」講義がスタート。
林塾からは福丸塾士、上田塾士、浜口塾士、出田塾士、石川塾士、嶋野塾士、杉原塾士、古川塾士、渡辺塾士、植田塾士、佐々木塾士補が参加。
林塾懇親会には、岡山県赤磐市の友實武則市長がお運び下さった。

2月16日(日)、京都・綜學社研修所で一日講座。
午前中は綜医学研修、午後は松林塾研修。学生・青年の成長が本当に嬉しい。文明法則史学研究所の服部匡成所長が特別講義をして下さった。

2月17日(月)~19日(水)、曾祖父の供養で台湾へ(下記ご参照)。

2月17日~19日訪台ご報告(連載は1回休みとさせて頂きます)
◆114年前に台湾で亡くなった曾祖父の供養祭

「100年以上前に死んだ日本人の、最期の場所を調べたいって。
記録なんて残っているはずがないし、そんなものが分かったら奇跡だ」。
現地(台湾・屏東県)に滞在したことのある邦人が、はっきりと言った。

その日本人の名は林由三郎。筆者・英臣の曾祖父だ。由三郎は慶応元年(1865)8月22日、下野国安蘇郡(栃木県佐野市小中町)に生まれた。
父は幸吉(弘化元年7月28日生)、母はヤス(天保14年4月2日生)。
由三郎という名だが長男である。

殉難の碑が佐野市小中町の浄蓮寺にあり、由三郎の人柄が次のように書かれている。性格は温厚で、学問好きであった。初めて聞いたことでも、たちまち道理を会得する。が、それを決してひけらかさない。郷里の指導者として人望があり、仲間たちをよくまとめていた。

碑のある浄蓮寺は、田中正造ゆかりの寺として知られ、浜松の林家(筆者の実家)にも正造17歳の書と70歳の書がある(田中正造は足尾鉱毒事件に対して明治天皇に直訴した政治家)。

由三郎は明治25年(1892)4月、栃木県の巡査となり、小山と真岡の警察署に勤務した。背が高く、北辰一刀流の免許皆伝であったことを生かして巡査になったのだろう。伝聞によると、星亨(衆議院議員・逓信大臣)の護衛を担当し、一説には首相の警護も行ったという。

その後、明治30年(1897)志を抱いて台湾に渡り、台中県の巡査として1年余り勤める。一度帰国し、明治33年(1900)春に再入台。今度は、恒春(現在の屏東(へいとう)県恒春市)のシュングワンズイ(※虫ヘンに尋+廣嘴)警察官派出所に派遣された。

1900年頃といえば、日本による統治が始まって間もない頃で、台湾は危険に満ちていた。由三郎は、再入台の数ヶ月後に殉職するのである。

元台湾総統の李登輝氏によれば、当時の台湾は匪賊が横行して治安が悪く、コレラやペストなどの伝染病が流行し、アヘンが蔓延する未開の地であった(『日台の心の絆』宝島社)。しかも台湾最南端に位置する恒春地域は、特に荒れており、そこへの赴任はまさに命懸けであった。

任地には、その一帯をなわばりとする、張界という匪賊のリーダーがいた。
張界は体格が長大で、剛胆な性格の持ち主。住民らは安心して寝られなかった。

ある日、由三郎は巡邏(パトロール)中に龍泉水庄(村)で張界を発見。
これを追跡して捕まえるが格闘になり、数カ所斬られて死に至る。死亡したのは、明治33年(1900)8月25日。張界は、その後2カ月以上経って捕捉され、住民はやっと安堵したとのことである。

由三郎には4人の子供(女2人、男2人)がいた。長男の英一は満3歳、次男の文一(英臣の祖父)は満1歳2カ月だった。幼い子供たちを日本に残して、未開の異国で殉死したのだから、その無念は、いかばかりであったことか。

由三郎の念子は、この数年来、筆者にかかってきていた。一昨年、久しぶりに殉難の碑にお参りして碑文をよく調べてみた。そうしたら、由三郎最期の地が、現在の恒春市であることが判明。何とかして現地で供養したいという思いにかられ、この度の訪台に至った次第である。

多くの方々のご支援によって、奇跡は起こった。由三郎終焉の場所がピンポイントで確認されたのだ。

◇台湾無くして日本無し。台日協力を、民間レベルでもっと進めていこう◇

今回は5名のチームで訪台した(2月17日~19日)。父(由三郎の孫)と家内、静岡県袋井市選出の山本貴史県議(林塾7期生・塾士)、台湾との交流に熱心で屏東県にも詳しい山下昭信さん(旅行会社社長)、それに筆者の5名だ。現地では通訳の呉さんが加わってくれた。

高雄に到着した初日は、台湾製糖株式会社の博物館を見学。同社を設立した鈴木藤三郎氏は、氷砂糖製法の発明者として知られている(出身地は静岡県周智郡森町)。

製糖は産業の基礎となって台湾経済の発展を支えたが、大事な要件があった。それは水の安定供給だ。サトウキビ生産地では、地下ダム工法で水が確保された。その設計と原住民への協力依頼は、静岡県袋井市(当時は周智郡山梨村)出身の鳥居信平氏が担当。静岡県西部(遠州地方)には、台湾と深いつながりのある人物が複数いることを知った。

翌日は、まず屏東県政府を訪問し、鐘佳濱副知事に今回の調査への御礼を伝える(知事は台北に出張中)。次に、現地(由三郎終焉場所)に近い屏東県恒春戸政事務所(役所戸籍部)へ。ここで新聞各社とTV局の取材を受ける。

昼食会は県政府が催してくれた。その後、由三郎が派遣された警察官吏派出所跡地を見学。海岸に位置し、海がよく見渡せる。密輸船の取り締まりも仕事の一つであったようである。

そして、いよいよ由三郎終焉の地へ。我々は、恒春市の龍水里・草潭というところへ案内された。100年以上前と変わらないのではないかと思えるくらい草深い一帯である。

そこに、大正13年(1924)11月13日生まれで、91歳(数え年)になる陳進吉という古老が待っていてくれていた。彼から、由三郎殺害の言い伝えを聞くことが出来たのである。陳さんが生まれたのは由三郎逝去の24年後だが、日本の警官が殺されるというのは重大事件であり、その頃なら十分語り伝えられていたのだろう。

陳老人は言う。「事件の起こった日は、大雨が降り肌寒かった。殺された日本人巡査の背は高かった。匪賊の張界も大柄だった。張界は雨具(コート)を着ており、中に拳銃と短刀を隠していた。当時、匪賊のリーダーは3人いて、その一人が張界だった。職務質問を受けて張界は逃れた。坂になっているところを上りながら逃げ、脇に隠れた。そして、追ってくる警官に、不意を付き、振り向き様に突き刺した」と。

由三郎と張界の格闘は、日本側では「付いて来いと命じて引き連れたところ、後ろから斬られた」と伝わっていた。陳老人によれば「振り向き様に突き刺した」ということだから、振り向いたところに由三郎の背中があったということか。また筆者は、多勢に対して一人で立ち向かったのかと思っていたが、現場の格闘自体は一対一だったようである。

陳老人の話が続いた。「住民は匪賊と日本警察の双方を恐れた。見つからないよう、夜になってから遺体を移した」。その場所は、陳老人の家の裏側だったという。

そして、「遺体を板に載せて川に流した」が、後で埋葬したとも。その埋葬場所までは、陳老人も知らないとのことだった。

殺害現場は、陳老人宅のすぐ近くであった。「ここじゃよ、この竹藪の向こうが日本警官の死んだ場所じゃよ」と指差しながら教えてくれた。

そこにテーブルを持ってきて頂き、遺影と位牌を並べ、線香を上げた。屏東県政府参議の高吉發さんや、屏東県会議員の林亜相さんなど、多数の皆さんが一緒に線香を上げ合掌礼拝して下さった。筆者は般若心経と祖霊拝詞(祝詞)を上げた。父は、参列して下さった皆さんに感謝の言葉を述べた。

由三郎が入台する前年、恒春では日本統治に反対する1000人規模のデモが起きていたらしい。戸政事務所によれば、別の村では前年に3人の日本人警官が死んでいたという。しかし、龍水里・草潭で殉職した日本人警官は1人だけというから、陳老人の話が由三郎であることは間違いないだろう。

栃木県佐野市にある殉難の碑は、故郷の人々の厚志によって建立された。その碑文には「公に殉じ、死して志を遂げる。その栄には余り有るものがある」と記されている。

遺体は現地に埋葬されたのだから、遺骨は日本にはない。であれば、墓誌銘が刻まれた殉難の碑がお墓となる。

先祖供養(祖霊祭祀)は男系男子によって行われるのが大事であり、林家ではそれが筆者の役割になっていた。由三郎は、数え年36歳(満35歳)で帰らぬ人となったが、その志を受け継いでこそ子孫による供養となるのだろう。

実のところ最初は、個人で現地に行き、龍泉水庄のどこかでお線香を上げてくればいいと思っていた。それが皆さんのお陰で、事実上の屏東県政府による慰霊祭となったことに感謝している。由三郎も、本当に喜んでいることだろう。

下記に、感謝を込めてお世話になった方々を記す。
中国語講師の丁慧娟先生は、家内の中国語の講師。丁先生の紹介で、台湾大使館(駐日経済文化代表処)の林高?さんとつながり、林さんの友人で再生エネルギーを推進している晁成虎社長が動いて下さった。晁さんは「聯合報」新聞の林巧?記者に連絡して下さり、林記者が記事を書いてくれた(2013/9/12付)。新聞を読んだ地元では、学校や警察が一所懸命になって手掛かりを探して下さったという。晁さんは台湾(高雄)到着初日の夕食会にお越し下さった。

その新聞記事をフェイスブックで読んだ日本の政治家がいた。それが静岡県議の山本貴史さんだ(袋井市選出)。山本さんは林塾「政治家天命講座」第7期生。つまり筆者の弟子である。彼は山下昭信さんと共に屏東県政府との交流を進めており、日本側の窓口を担当していた。山本さんが屏東県政府に依頼してくれたお陰で、屏東県知事以下、県政府の全面的協力によって調査が進められることになった。

屏東県政府訪問では、副知事の鐘佳濱さんと参議の高吉發さん他が応対して下さった。高参議は、ずっとご一緒下さった。

屏東県政府の指示により一ヶ月以上に渡って調査して下さったのが、屏東県恒春戸政事務所・股長の謝鳴輝さん、主任の陳群龍さん、秘書の陳明坤さんをはじめとする皆さんだ。

現地の古老から聞き取り調査をして下さったのは、歴史学者の念吉成さん。念さんは、由三郎を教科書に載せようという話まで持ち出されていた。これにはびっくり。

慰霊祭では、91歳の陳進吉さんや、県議の林亜相さんも線香を上げて下さった。恒春市には歴史博物館を建設する構想があり、そこに由三郎の事績を入れたいという提案を林県議から頂いた。林県議は次期恒春市長の有力候補とのこと。

今回は会えなかった方や、お話ししなかった方、名刺交換出来なかった方の中に、御礼を伝えるべき方々が沢山いる。全ての皆さんを、ここに記せられないことをお詫びしたい。

筆者は、記者会見の中で「曾祖父が殺されたことは全然怨んでいません。
それどころか、愛情と友情によって丹念に調査して下さったことに深く感謝しています」と申し述べた。

慰霊祭の祝詞の最後では、「台湾国と日本国の一致協力によって、アジアから世界平和の礎が築かれますことをお祈り申し上げる」と結んだ。台湾無くして日本無し。台日協力を、民間レベルでもっと進めて行かねばならない。

なお、慰霊祭の後、アジア最南端の日本語図書館「池上一郎博士記念文庫」に寄って10数冊の拙著を寄贈。台南大学教授(先祖が文庫設立に関与)が、それを受け取ってくれた。