秀吉の朝鮮出兵と、拡大路線の限界

◇16世紀にあった日本軍事占領計画◇

秀吉がバテレン追放令(1587)を出したのはなぜか。その背後に、イエズス会による日本軍事占領計画があり、ポルトガル宣教師ルイス・フロイスも関わっていたという事実を忘れてはならない。

日本を占領しようという計画は数度に渡って練られ、追放令の後のものはキリシタン大名を巻き込んだ大規模な内容であったという。軍隊と宣教師が一体となって世界を侵略したのがスペインのやり方であるから、追放令は当然の処置であった。

文明法則史学によれば、16世紀のヨーロッパは「西の文明サイクル(CC)」の活発な活動期にあり、世界進出が基本路線となっていた。東アジア(日本・朝鮮・明国)も、その進出の対象とされていたのである。

◇筆者は朝鮮出兵に反対する◇

そうした中、日本は朝鮮に出兵(文禄・慶長の役1592~1598)し、さらに明征服を目論むことになる。それは、スペインによる東アジア侵略への、我が国としての対抗策であったという見解もあるらしい。

だが、筆者は朝鮮出兵に反対する。西洋のアジア侵略に対する防衛戦を行うというのなら、スペインが実際に朝鮮や明国に攻めて来るときに合わせて援軍を出すことだって可能であったはずだ。

スペインが攻めて来るかも知れないという理由で、他国に対する武力征服という野望を正当化させるような考え方には賛同出来まい。王道や和道に反する覇道そのものであり、攻撃される相手(朝鮮や明国)の立場に立ってみれば分かる話だ。

◇これでは秀吉の暴走でしかない◇

秀吉は得意とする外交交渉で、朝鮮や明国に連携を働きかけるといった努力をしていたのだろうか。明国は中華思想の国であり、朝鮮はその影響下にある国だ。彼らから見たときに東夷に位置する日本は全然相手にされず、同盟案は一笑に付されたというのだろうか。

そういうことならともかく、本心では家康も消極的であったという海外出兵に、西洋の野望を砕くための戦略的ビジョンがあったとは到底思えない。「白村江の戦い」のときのように援軍を求められたわけでもないのに、言葉も通じない他国に大義無き戦いを挑んだのだから、これはもはや秀吉の暴走でしかなかった。この出兵で、朝鮮の国土を荒廃させ、人々に多くの被害を与えてしまっている。

◇秀吉は日本人好みのヒーローだが…◇

秀吉は、人たらしで明朗、相手を取り込む魅力を持っていた。その持ち前の人間力で天下統一を果たし、部下には恩賞を惜しまず振る舞った。講談的ネタに尽きない、日本人好みのヒーローと言える。でも、役割としては信長と家康の中継ぎであり、天下人として限界があったと考える。検地など重要な政策も行ったが、家康の幕藩体制構築に見られる緻密さに比べれば、統一後の方針(グランドデザイン)に乏しかった。

秀吉が長生きし、朝鮮や明国とさらに長い戦いになり、東アジアが疲弊したところへ西洋が攻めてきたら、それこそ相手の思うつぼであった。本当に西洋の侵略を排除したいなら、少なくとも隣国と潰し合う愚を避けねばならぬことは理の当然だ。

その後、近代になって、その愚を犯すことになる。日本政府の方針では早く終わらせたかったはずなのに、実際には泥沼化する一方であった日中戦争が、まさにその例であった。中国共産党の背後にいるコミンテルンや、中国国民党の後ろにいる米英に“引きずり込まれた戦争”という一面があっただけに、冷静な反省が求められる。

◇結局、秀吉は己の人間力と財力に頼り過ぎた◇

スペインだが、文禄・慶長の役の前にオランダが独立(1581)し、英国海軍に敗れ(アマルダ開戦1588)、東アジア侵略どころではなくなっていた。オランダは東インド会社を設立(1602)し、日本に接近してくることになる。もはやスペインの時代ではなくなっていたのだ。もしかしたら、秀吉はスペインの衰退を知って、今なら海外進出のときだと思ったのかも知れない。

また、明国は文禄・慶長の役で疲弊して滅亡を早め、やがて漢民族は、満州族の支配を受けることになる(清朝の成立)。

結局、秀吉は己の人間力と財力に頼り過ぎた。そして、拡大志向の勢いのままフィリピンや台湾に対して服属を要求し、朝鮮を巻き込んで明を攻めようとするなど、強引な海外進出を目指したところに問題があった。

家康は、秀吉のやり方の限界を冷静に見ていた。秀吉を反面教師として学び、領土を増やさなくてもいい仕組みをつくることによって、盤石な幕藩体制を成立させていったのだ。

当時は「東の文明サイクル(CC)」の準備期であり、日本にとって海外展開に相応しいときではなかった。秀吉の膨張路線は、時代が求めるものではなかったのである。(参考:林英臣著『歴史に学ぶ興亡の法則』知致出版社平成8年初版)