国家否定の世界主義者と、攘夷的な憂国論者…

※下記拙論は、よくまとまっているとは言えませんが、国家観や全体観のご参考になれば幸いです。なお、連載は1回休みとさせて頂きます。

国際化の時代か、それとも国家意識の時代か

経済が国際化し、グローバリゼーションが進んでいます。昔に比べたら、国家間の垣根が低くなってきました。その一方で、中国漁船による巡視船への衝突時件が発生し(尖閣諸島沖)、ロシアによる北方領土に対する実効支配の強化などが進んでいます。この緊迫化する情勢の中で、国家をしっかり守ろうという意識が高まるのは当然です。

では、これから国際化は益々進むのか、それとも国家意識が強まる時代へ向かうのか。一体どちらが、進むべき方向なのでしょうか。いずれにしても、日本人なら日本という国を、もっと知らなければならないことだけは確かでしょう。

いっそのこと国家を統合し、世界を統一しようという意見があります。
コスモポリタン(世界主義者)の主張などがそれです。

武力を背景にした覇権国家が、国内では人民を弾圧し、対外的には領土拡張のために戦争を仕掛ける。そういう歴史を見ますと、諸悪の根元は国家にあったという考え方が成り立ちます。そして、国境を無くし、世界国家にすれば平和になるだろうという結論に行き着きました。

この考えは、世界全体を捉えていて一理ありそうですが、これも部分観ではないかと思います。国家を悪にしか捉えられない部分的認識だからです。

胃を取ってしまえば胃癌にならなくなる

確かに近代国家は、覇権主義に基づいて、ひたすら拡大・膨張を目指してきました。侵略しなければ自国を維持出来ず、戦争に勝つこと自体が国家目標と化してしまいました。経済戦争も同じであると言えます。

日本は近代国家を建設し、日清戦争と日露戦争を経て第一次世界大戦に参戦し、大東亜戦争(第二次世界大戦)では世界を敵に回して総力戦となり、アメリカによって原爆を投下され敗戦の憂き目に遭いました。日本という国家があったから国民は戦争で苦しんだのだ、国なんて要らない、もうこれからは世界でいい。そういう考え方が出て来る理由がそこにありました。

今日でも帝国主義的な膨張国家が幅を利かせていることを思えば、ならば国家そのものを無くしてしまえばいいだろうという気持ちになるのも分からないではありません。でも、国家を無くせば全てが解決するほど、人間社会は仕組みとして単純なのでしょうか。

国家廃止論者は、国家の負の面ばかりを強調し過ぎています。国家が消えれば、国家が起こす戦争が無くなるという考え方は、胃を取ってしまえば胃癌にならなくなるとか、歯を全部抜いてしまえば虫歯にならなくなるという意見に似ています。

それでは根本解決になりません。胃を取ったところで胃を悪くしていた原因が消えたわけではないし、歯を抜いたところで、よく噛めなくなって胃腸に負担がかかるだけのことです。こうした部分観の意見では、却って問題を深めるだけのことが多いものです。

国家を廃止して世界を統一するには、桁外れの超覇権大国の存在が必要

国家の中には、風土に根ざした歴史や文化、独自の言語や信仰が存在しています。固有の伝統が維持され、民族の祖霊を祭る(慰霊する)ところに国家の意味があるのです。そういう国家の価値は、人類が存続する限り無くならないし、また亡くしてはならないと思います。

もしも国家を廃止して世界を統一しようとすれば、桁外れの国力を持った超覇権大国の存在が必要となるでしょう。その力によって、個々の国家が伝えてきた美意識や価値観は否定され、固有の生活や習慣が消されていく可能性があります。

素直に考えて、無理矢理な世界主義というものに組みするわけにはいきません。国家それぞれの歴史や文化、あるいは言語や信仰の価値が認められ、共同体や民族の自立が保証された上での世界連邦化なら分かりますが、一つの思想や政治制度を押し付け、価値観を統一して多様性が消滅させるという、弾圧厳しい恐怖政治になったらたまりません。そういう世界統一では、人類全体の文化を著しく退化させることになってしまうに違いありません。

海舟や龍馬が、なぜ単純な攘夷に加わらなかったのか

さて、単純な世界主義は困りものですが、意識が日本で止まっている狭い憂国論者も頂けません。日本の危機だ、未曾有の国難だ、立ち上がって日本を守ろうという気勢は大いに結構です。しかし、危機や国難を救った先に来る、日本再生のビジョンはあるのでしょうか。どうもその辺が曖昧で、居ても立ってもいられないから動いているという「大変屋」が多いように感じます。

再生された日本は、どう世界に向かうのか。そもそも何のために日本という国が存在しているのか。日本の新しい国是とは、世界が日本を尊敬してやまなくなるような国家ビジョンとは何か。これらに答えを出せてこそ、平成の「岩屋戸開き」がはじまるのです。

幕末の尊王攘夷論者もそうでした。天皇を尊んで夷敵(列強)を打ち払うのは気構えとしていいのですが、その先のビジョンが無かったのです。海舟や龍馬が、なぜ単純な攘夷に加わらなかったのかを、よく考えてみましょう。彼らは、開国維新のその先を見ていました。夷敵をただ斬ればいいやり方では、埒が開かないことを重々承知していたのです。

早く国家そのものの格を上げねばならない

そういえば、民主党による政権交代にも、その先のビジョンがありませんでした。自民党を倒せば、あとは何とでもなると考えたほど、見通しが甘かったのです。

いくら堂々とした主張をしていても、せいぜい3~5年先までしか見ていないような活動では将来を託せません。意気込みだけよくて、視界が大変悪いという(思考停止の)運動に、我々は案外惑わされます。長期展望を欠いた政党を応援するのは、甚だ“危険”な選択となることがよく分かりました(旧体制の壊し屋でいいというなら別ですが)。

国家否定の世界主義者も攘夷的な憂国論者も、どちらも部分観の徒です。全体観によってこれらを包含・超越することで、早く国家そのものの格を上げねばなりません。それが筆者の掲げる「高徳国家の建設」の意味なのです。

天下を取るのは短期目標、日本改新(日本再生)は中期目標、文明維新(人類進化)が長期目標。そういう意識で進みたいものです。日本を変えるためには天下を取らねばならないし、世界を救うために日本を変えねばならないのです。

我々は、人類前史と人類後史を分けるくらいの大きな文明交代期に生きています。日本は、決して小さな国ではありません。ここでは具体的に述べませんが、世界の危機を救う大事な役割を持った国です。人類進化のために役立たなければ、日本国の存在価値は無いと思うべきです。

日本のため(だけ)に日本を救うという、狭い了見を捨てましょう。日本は、日本のためだけに存在している国ではありません。我々が今思っている何十倍も何百倍も、日本の使命は巨大なのです。人類進化に役立つ国だからこそ、祖国の再生に本氣になれるのです。