No.56 自分は先祖の生まれ変わり、子孫は自分の生まれ変わり

先祖と子孫の間に生きることの意味

深いところに根ざすあり方は、先祖の祭祀にも通じます。老子も本章にあるように、先祖の祭祀の大切さを認めていました。

我々は、ただ一人で生きているのではなく、先祖と子孫の間にあって、そのタテイトをつなぎながら生きております。自分は先祖の生まれ変わりであり、子孫は自分の生まれ変わりであると言うことも出来るでしょう。

タテイトの連続性からすると、今この時代を生きている我々だけの都合や欲望で、物事を決めてはいけないということになります。どうしたら先祖に喜ばれ、ご恩返しが出来るか。何をしたら、子孫や将来世代の役に立つか。
それらを考え、タテイトをベースに行動するところに、本当の意味の自己確立があるはずです。

いわゆる自己中心的な個人主義は、道に外れた間違いであることを知りましょう。一人ひとりの存在が大事であることは当然ですが、その掛け替えのない個人はどこから来たのか、その人をその人らしく育んでくれた文化や伝統とは如何なるものか。そういったことに思いを広げなければ、結局個人が持っている魅力や、価値の深いところは現れてこないはずです。

身勝手な個人主義では、深い喜びが得られない

個人を埋没させて構わないと言っているのではありません。
それぞれのタテイトに人生を重ねながら、自分ゆえの幸福を掴んで欲しいと述べているのです。

身勝手な個人主義で、果たして深い喜びが得られるでしょうか。
時間軸が断たれてしまい、刹那的で退廃的な生き方にもなります。歴史を貫いて共感出来るものがなく、一体感が希薄になってしまいます。

先祖の祭祀が、なぜ大切か。それは、先祖が遺した思いや無念、憤りなどを放っておいてはいけないからです。チスヂを受け継いでいる子孫に、それらを昇華させる役割があると思うのです。

先祖の無念や憤懣(ふんまん)は自分の代で解消させ、子孫には可能な限りプラスの念子を渡していく。そうすればタテイトによる幸せが生じてきて、「道の働き」が確固たるものになります。自分たちの子孫としても、先祖供養の祭祀を絶やさなくなるであろうと。

先祖供養は本来、儒家が尊ぶ基本とされていますが、道家の老子もこれを教えていたのです。こういうところにも、中国思想の厚みを感じる次第です。(続く)