No.62 赤子の旺盛な生命力に復帰しよう

赤子は毒虫や猛獣、猛禽に襲われない!?

「徳」は中国思想の重要なキーワードで、儒家も道家もこれを尊んでいます。しかし捉え方に違いがあり、儒家では努力によって磨かれた「後天の徳」を「徳」というのに対し、道家では持って生まれた天性や個性などの「先天の徳」を「徳」の意味としています。

まあ、それはともかくとして、「先天の徳」でないものは磨いても生かされないし、磨いて生かさなければ「後天の徳」にはならないのですから、本当は一つのものといってもいいでしょう。

本章の最初は「内在する徳が厚いのは、赤子と比べられるだろう」という言葉から始まります。「内在する徳」が、その天性や個性としての先天の徳にあたるものです。それが厚い、つまり先天の徳が十分あるという状態は、丁度赤子の持つ純朴な生命力に例えられるとのこと。

そして「「蜂やサソリ、まむし(などの毒虫)は(赤子を)刺さない。猛獣は掴(つか)まないし、猛禽は攻撃しない」というのです。う~ん、これらは如何なものでしょうか。赤子だから虫に刺されず、猛獣や猛禽に襲われないという保証は、どこにもありません。むしろ、美味しそうな獲物として、ターゲットにされる可能性の方が高いでしょう。

赤子には冒し難い徳がある

では、老子は何故、赤子はそれらに襲われないと断言したのでしょうか。それは、赤子の持つ素朴さが、そのまま身を守る力になっているからです。毒虫も猛獣も猛禽も、それらは例えであって、実は人間を表していると考えるべきでしょう。

赤子には、人為の計らいが一切ありません。損得勘定で人に接するようなことは皆無で、どこまでも心が純粋です。相手を騙そうとか、罠にかけてやろうとかいう邪心が少しも無いのです。

赤子のあどけなさや無邪気は、どんな大人の心も和ませてくれます。誰だってそういう赤子を、攻撃しようという気にはならないものです。赤子には、純朴さからくる冒し難い徳というものがあるのです。

毒虫や猛獣が比喩だと言いましたが、赤子についても同じです。老子は「赤子と比べられる」と言ったのであり、「赤子のことだ」とは語っていないことに注意しましょう。大人は赤子に学ぶべきで、赤子に復帰すれば、どうでもいい摩擦を避けられるというわけです。

小さな身体に秘められた無限のエネルギー

それから、純朴さや無邪気さだけが、赤子の持つ力ではありません。赤子は「骨は弱く肉は柔らかだが、握る力はしっかりしている」と。赤子には、驚くほどの握力があります。大人が指を出すと、赤子はその手でしっかりと掴みます。その状態で挙げていくと、赤子は自分の体重に負けないで引き上げられてしまいます。それほど赤子の握力は強いのです。

また「未だ男女の交合を知らないのに、幼児の性器は勃起する」というのも、赤子の旺盛な生命力の現れです。「精気が充実している」のです。

「一日中大声で泣いても声は嗄れない」のもそうで、「それは調和が十分に取れているから」です。赤子は、顔を真っ赤にしながら全身運動として泣きます。小さな身体に秘められた、そのエネルギーには無限の大きさがあります。それでも声が枯れないのは、実はそれによってエネルギーのバランスを取っているということなのです。(続く)