No.69 平気で浪人の出来る生き方が、指導者になるほど必要

無いときは無いように生きればいい

地位や名誉なんて、無ければ無いで結構。使命を果たすため、何らかの立場に就くことはあり得るが、役割が終わったら平気で浪人(地位や役職から退いた者で牢人ともいう)が出来る。昭和歴代首相の指南役であった安岡正篤先生が言われた通りで、そういうさっぱりした生き方が、指導者になるほど必要となります。

簡単に言えば「無いときは無いように生きる」ということです。栄光に輝く暮らしを離れ、塵の如き貧弱な生活にまみれたとしても、何処吹く風という達観です。大所高所から冷静に己を眺め、飄々(ひょうひょう)として生きていくことの出来る姿勢が、そこにはあります。

この、栄耀栄華(=光)に溺れず、たとえ地に落ちて貧しい暮らし(=塵)に陥ろうが、少しも動じないという生き様を「和光同塵」と言います。「光を和らげ、塵に同化する」という意味で、老子はこれを「玄妙なる合一」と表現しました。

塵は、どこにでもあるものを指しております。眩しく輝いているわけではないから目立たないし、人が欲しがるような値打ちもありません。そういうものに対しても、躊躇することなく同化してしまう力が真の強さなのです。

見習いの一工員や一店員になりきれるかどうか

目の前にあるものに対して同化出来るということは、本当に大切なことです。
松下幸之助翁は、工場実習のときは見習い工員になりきり、販売実習のときは見習い店員になりきることが肝腎だという意味のことを言われました。

見習いの一工員や一店員では、まだ何の役にも立たないわけですが、それでも工場や店の一員となって一所懸命励めと。兎に角なりきって働けるようでないと、何も身に付かないまま終わってしまうと教えたのです。

また「和光同塵」は、人目に付く明るいところでのみ頑張るのではなく、暗くて目立たないところをこそ整えよという教えでもあります。メッキのように表面だけ光らせているようではダメで、目に付きにくい内部を整えないと、たちまち襤褸(ぼろ)が出てしまうものです。

メッキのままでは人間そのものが薄いのであり、内部から光が滲み(にじみ)出るような本物の人とならねばなりません。それには、一人でいるときの身の処し方が問題となります。

陰徳を積むことが、内なる輝きの元となる

例えば、誰にも見られていないところで、自分の履物(はきもの)は当然のこと他人の物まで揃えるとか、講座などの準備であれば、まだ誰も来ない内に会場に行って黙々と掃除をしておくとか、あるいは最後に一人残って片付けをしてから帰るとか。要するに陰徳を積むことが、内なる輝きの元となります。

いつも注目されていたい、目立ちたいという爪先(つまさき)立った生き方では、どこかに無理が生じてきます。途中で息切れしたり、要らぬ摩擦があれこれ起こったりすることでしょう。脚光を浴びることばかり求めていないで、塵ともなって地道に修養し、黙々と基盤づくりに努めたいものです。

そして、わざわざ敵を作るような「鋭さを挫き」、トラブルの「紛れ(もつれ)を解き」なさいとも。これは、気負いを挫き、肩肘張った対立を解くよう諫めた教えです。

こうして毀誉褒貶(きよほうへん)に動じない人物となることが、「玄妙なる合一」です。「玄妙」とは奥深くて優れていることであり、天や神に通じている様子、則ち天神合一、神人合一の境地を指しております。(続く)