No.70 不遇で不自由な期間が心胆を練る

坂本龍馬らの活躍は不要であったかも!?

和光同塵の生き方を貫いたのが、大西郷と称えられた西郷隆盛でした。
西郷は薩摩藩主の島津斉彬に見出されて、雄藩連合による政治改革運動に活躍します。

雄藩連合運動というのは、ペリーの黒船来航後、挙国一致で国難にあたろうとした政権構想のことです。トップに一橋慶喜を立てて次期将軍に据え、これを支えるべく尾張藩や水戸藩、越前藩、薩摩藩、土佐藩、伊予宇和島藩など、御三家から外様藩までが連合するという大構想でした。

この政治運動を“事務局長”としてまとめていたのが、福井藩士の橋本左内です。若き左内は、藩主・松平慶永の側近として活躍します。西郷は、その左内の同志として行動を共にし、諸藩に知られる人物に成長しました。

筆者は、この改革が成功していれば、後の坂本龍馬らの活躍は不要であったのではないかとさえ思っています。折角の構想でしたが、これによって既得権益を失うことを恐れた守旧派の反対で潰されてしまいます。
それが幕府の強権発動、安政の大獄でした。

潔く野に下った西郷隆盛

安政の大獄で、橋本左内は吉田松陰らと共に処刑されてしまいました。
西郷隆盛は幕府の追っ手を避け、奄美大島に身を潜めます。さらに西郷は、斉彬死後に薩摩の実権を握った島津久光と、反りが合わないことが原因で徳之島と沖永良部島に島流しになります。

潜伏と島流しを合わせると、約5年の年月(としつき)となります。これが西郷の「同塵」の期間でした。沖永良部島では死を決意して絶食までしますが、周囲の助けによって命を取り留めます。しかし、この不遇にして不自由な5年間があることによって、西郷は深く心胆を練ることが出来たのです。

また、新政府の誕生に活躍した後、大久保利通たちと意見が合わず、潔く野に下ったときも「同塵」の境遇に身を置くことになります。新政府の腐敗堕落に憤ったことの他、日本の急激な西欧化に問題を感じたことも理由にあったと推測します。

相手が後進国と見るほど、力で侵略するのが西洋のやり方である。だから西洋は、真の文明国でなく野蛮国と言うべきだ。その西郷の見解からすると、新政府は野蛮な西欧に倣おうとしている。そのことへの不信感も、理由の一つであったと思う次第です。(続く)