No.76 規制教の盲信か、自由教の盲信か

昼食をラーメンにしようか、牛丼にしようか

甲を選ぶか、乙を選ぶか。Aを取るか、Bを取るか。決断の場面では、二者択一となることが多くあります。重要な決断ばかりではありません。
昼食をラーメンにしようか牛丼にしようかというときだって、結局どちらかに決めなくてはなりません。

私たちは、この一方を採ったら、もう一方は捨てるという選択に慣れております(難しく言えば弁証法的な選択)。そのためか、どんなことに対しても二者択一の思考パターンで対応してしまい、そこから抜け出せないでいることがよくあります。

世の中の現実は、すっきり二元に割り切れないのが普通です。いい加減でいいという話ではないから誤解しないで欲しいのですが、白か黒か、善か悪かと考えれば、白でも黒でもないグレーゾーンが実際であったり、善悪の中間が本当であったりします。人間は神と悪魔の中間で生きている、というようなものです。

規制も自由も、世の中を円滑に運営する手段に過ぎない

規制か自由かという問題を練る場合も、規制を選んだら自由は捨てるとか、自由を採ったら規制は止めるといった単純な思考で済むものではないと思うのです。この問題は、両者のバランスに正しさがあるはずで、規制と自由はブレーキとアクセルのような関係にあります。時と場合に応じて、ブレーキを踏んだりアクセルを噴かしたりする。それで安全運転が出来るというわけです。

何事であれ、どちらか一方のみを重視するのは、部分観に囚われた思考が原因です。社会は規制で成り立つのだから、あらゆることに厳しい規制を掛けよと叫ぶのは「規制教」の盲信です。人間は本来自由であるべき存在だから、全ての制約を取り払って勝手にさせよと訴えるのは「自由教」の盲信です。

規制も自由も、世の中を円滑に運営するための手段に過ぎません。規制や自由を“神聖化”するからおかしくなるのであって、冷静に手段として使えばいいだけのことです。

幼いときに徳目を教え、成長するに従って自主性を養わせていく。国内産業を守るべき状況では保護政策を行い、国際競争力を育てるべき段階に至ったら、可能な限り規制を外して自由に競争させるといった方法が、手段としての使い方です。やろうと思えば出来るはずです。

一旦規制を掛けたら、ずっとそのまま。自由にさせたら、後は放ったまま。
そういう固定化が一番いけないと思います。時と場合に応じて両者を調整するのが、達人の政治というものではないでしょうか。(続く)