No.83 福を招き、幸を掴んでいく高徳人生

禍の隣に福がおり、福の脇に禍が隠れている

続いて老子は「禍には福が寄り添っており、福には禍が潜んでいる」と語ります。禍(わざわい)と福は常に隣り合わせで、禍の中に福があり、福の中にも禍があるというのです。確かに、他人から見たら禍に見えても、当人にとっては幸せということがあるでしょうし、端から見れば福に見える生活なのに、実際は問題が多くて不幸せということもあります。

さらに「誰が其の極みを知っているだろうか」と。この言葉の「極」を行き着く先(終局)と解釈すれば、禍福それぞれの終着点になります。禍は禍、福は福で何処(どこ)まで行くか分からないという意味です。

あるいは、循環の意味に捉えることも可能です。陰極陽転・陽極陰転という巡りによって、禍も福も極まれば反対の方向へ戻っていくという考え方です。禍が起きても、それがいつまでも収まらないことはありませんし、福が来て、それがずっと続くこともありません。禍福は入れ替わるものというわけです。

確かに、この世のあらゆるものは循環しており、昼夜が交代し、四季が巡るように禍福も交替します。「災い転じて福となす」の諺の通り、問題の発生を進化へのチャンスに変えられたり、反対に順境に慢心して衰退を招いたりするのです。本当に禍の隣に福がおり、福の脇に禍が隠れているのが世の常です。

禍よりも福を警戒せよ

禍と福では、警戒すべきは過よりも、むしろ福の方でしょう。衰退や滅亡というものは、大災害の発生など特別の事情を除けば、その多くは福が導く現象と言えます。福が続くことによる気の緩みや思い上がりで内部が緩んでいるところへ、外から大きな圧力が掛かることで滅んでいきます。

例えば、客足の絶えない大通りに店を出しておれば、その分努力が乏しくても繁盛します。集客が楽だから、残心を込めるほどの熱心さが起こらないわけで、社員教育も不十分となり、内部が緩んだままとなります。

やがて、近くの大型デパートが撤退でもすればどうなるでしょうか。人の流れが大きく変わって、酷ければ店も倒産ということになってしまいます。立地条件の良さに胡座(あぐら)をかき、根強い顧客をつくってこなかったのだから滅亡は自業自得と言えます。

志によって、禍を福に転ずる力が高まる

世の中を見ると、禍をさらに禍に悪化させてしまう人もいるし、福を益々福に上げていく人もいます。何が違うかというと、後者はプラス発想を基本にしています。幸福な人にも禍は起こっているのですが、自分に起こる出来事を必要なメッセージと解釈したり、天が試している試練と受け止めたりしているのです。

そして、「何のために生きているのか」という自問に対して、しっかりと自答出来る「原点」があります。困難を前にして、ここで終わるわけにはいかない。中途で止めたくはない。自分を待ってくれている人がいるのだから前に進みたい。人の役に立って喜ばれたい、などという人生の基点や、ぶれ難い軸を持っているのです。

それを、志に具体化していれば、さらに禍を福に転ずる力が高まります。具体的な方法があり、目指す方向が明確なのだから、苦難に出会うほど「雨降って地固まる」結果が起こるのです。志があれば禍に負けないし、志を失わなければ福に驕ることもないのです。

兎に角、艱難辛苦を伴わない事業は一つもありませんし、幸せそうな家庭にも人知れぬ苦労があります。それを乗り越えて世のため人のために生きていくところに、福を招き、幸を掴んでいく高徳人生があるのです。(続く)