No.84 正しいものとは何か

人為の多くは部分観に陥っている

老子は、表面的な「人為」を大変嫌いました。人為とは「人が為すこと」で、人間にとっての便利さや、自分の都合を優先する行為がそれに含まれます。その多くは部分観に陥っており、人間にとっては楽だが自然環境を酷く損なうとか、自分中心過ぎて周囲に迷惑が及ぶといった現象が起きます。

例えば、プラスティック製品の製造です。便利だが捨てられると自然に還らず、ゴミのまま残ってしまうという弊害があります。以前に述べたフロンガスやアスベストも、環境や人体に対する悪影響が問題となりました。

個人の都合によって引き起こされる他人への迷惑では、歩道を猛スピードで走る自転車があります。運転者にはスイスイ走れて便利でも、歩行者には避け難い相手となります。そもそも、速さの違う自転車と歩行者を一緒にさせること自体が間違いであり、夜間無灯火の自転車に至っては危険運転以外の何ものでありません。便利な自転車も、使い方次第では前章に出ていた「奇物」の一つになってしまうのです。

正しいものは、有るにはあるが…

また、歴史観も一つの人為でしょう。歴史認識には、それぞれに立場と考え方というものがあります。一方にとっての正義が、相手国にとって正しいかどうかは分からないものです。自国の歴史に対する誇りを国内に留めておく間はいいのですが、相手国にまでその価値観を押し通そうすると大きな摩擦の元になります。

老子はそういう様子に対して、「正しいものは存在しない。正しいものはまた奇異なものとなり、善いものはまた妖しいものとなる。(そういうことに)人間が迷うようになった日からまことに久しい」と述べました。

「正しいものは存在しない」というのは、そもそも「絶対に正しい」と言えるものは滅多に存在しないのだから、「正しい」という言葉をやたらに使わないようにという忠告だと思われます。「正しい」という言葉が多くなればなるほど奇異なものが増えるし、「善い」という言葉を多く使えば使うほど妖しいものが出てくる
と。

正しいものは、有るにはあります。けれども時と場が変われば、正しいと思ったものが変なものになり、善いと判断したものが害あるものになったりします。では、何をベースに「正」や「善」を判断していったらいいのでしょうか。
(続く)