No.97 幽霊を見たとか、先祖に助けられたとか…それって何だろう

◇決してかき混ぜたりせず、じっと待つのがコツ◇

筆者の父親の趣味は釣りです。地元遠州の川で、よくハヤを沢山釣ってきました。ハヤは小魚ですから、調理の際、頭を切ったり骨を抜いたりするわけにはいかず、鱗も取りません。

から揚げで食べる他、鍋に入れて甘露煮にもしてくれました。弱火で4時間から5時間ほど煮る間(あいだ)、甘くて香ばしい匂いが部屋中に漂ったものです。兎に角一度火にかけたら、お湯や調味料を加えること以外、決してかき混ぜたりせず、じっと待つのがコツだと教えられました。

甘露煮ならば兎も角として、なぜ「大国を治めるのは、小魚を煮るようなもの」なのでしょうか。大国は、図体が大きい分、政策の成果がすぐには現れません。反応し出せば質量共に大きいのですが、結果が出るまで一定の時間を要します。だから、じっくり待つ忍耐力が求められるのです。

また、大国には分厚い底力があります。元々持っている可能性が大きいのです。それを発揮させるためにも、小さくつつくような政治はしないほうがいいということでしょう。小さくつついてダメにしてしまうというのは、規制をかけ過ぎて成長力を削いでしまうとか、補助を与え過ぎて自立力を損ねてしまうということです。

人間を大きく育てたいときも同様です。最初から些細な損得勘定を「生き方のコツ」として植え付けるのではなく、つまらない利害得失を超えたところにある美意識や価値観を、じっくりと養わせることが大人物の育成には肝要です。技術的な教育に入る前に教えるべき、信念の元となる素養が必要なのです。文明観や世界観、国家観や歴史観、人間観や死生観、文化観や芸術観などが素養にあたるものです。

◇霊は確かに在るのだが、人間が観測しなければ現れない◇

そして「(無為自然の)道に従って天下に臨めば、鬼神は祟らなくなる」と。
鬼神の「鬼(き)」は、霊魂や先祖霊のことです。精霊、お化け、妖怪なども、鬼に含まれます。

「鬼」は、お面をかぶって踊る人を表した漢字です。お面をかぶった人を、先祖霊としてお祭りしたことが由来です。

この「霊」というものが、本当にあるのかどうか。筆者は今、こう考えています。在るには在る。だが、無いと思ったら無いのと同じであると。

どっち付かずの、いい加減な答だと思わないで下さい。霊は確かに在るのだが、人間が観測しなければ現れないものであると言いたいのです。観測とは「同調する」ということです。神霊の持っている“周波数”に合わせるということで、そうすると見えたり感じたり、あるいは物理的な影響を受けたりすることも可能になります。

◇念子は、人間が精神活動をするときに放たれるエネルギー◇

その基になるのが、先にも述べている「念子」です。念子は、人間が精神活動をするときに放たれるエネルギーのことで、一心に祈るときや強く願うとき、志を明確に立てたときなどに人から放射される、一種の量子にあたるものであると考えます。

量子は、電子や光子などの、とても小さな存在です。量子の姿は、波のようでありながら粒子のようでもあります。あまりに小さく、動きとしては波なのに、観測すると粒子であることが分かるのだそうです。

観測によって、ゆらゆらした状態(波)から、物質的状態(粒子)に転ずるというのは実に不思議なことです。おそらく念子も、同じ様な性質を持っているのではないでしょうか。

肉体としてこの世を去っても、念子は残ります。強い願いや無念は、念子として残り続けるのです。但し、そのままでは、念子は空間を漂っているだけの(波の)状態です。それを、誰かが認識しなければなりません。

その念子を、ひとたび人間が受信すれば、“物質化”して何らかの現象を起こすことになります。幽霊を見たとか、先祖に助けられたなどという神霊現象は、おそらく念子が元になっているのではないかと思われます。(続く)