No.106 死は終わりなのか、新たな始まりなのか

◇念子のヒモ◇

生きている間に為すべき一番の仕事。それは、可能な限り沢山のプラスの念子を残すということに尽きます。後に続く人たちにとって有益となる念子を、どれだけ放つことが出来るか。

プラスの念子が多いほど、死んだ後に残り続けることになるミタマやタマシヒ、つまり念子体が素晴らしいものになります。価値のある念子こそ、本当の意味の遺産ではないかと思います。

お化けのシーンに、よく火の玉が出てきます。あれは人魂(ヒトダマ)という、人が死ぬときに抜け出た魂だとされています。そういうものがあるとすれば、それが念子体ということになるのでしょう。

先祖から子孫へ引き継がれていく念子、先人から後進へ託されていく念子。その継続性を時間軸に乗せてみると、まるでヒモ(紐)のようなものに見えてきます。時空を超えて連続していく「念子のヒモ」です。

ヒモにあっては、有名な人と無名な人の違いはありません。夭折した人と天寿を全うした人の差もありません。皆、本氣で生き、真剣に死んでいった仲間です。それぞれの念子のヒモを、共に編んでいく大事な参加者なのです。

◇どう生きるかは、どう死ぬかに他ならない◇

さらに、過去と現在の差異もありません。「この世」と「あの世」の違いも無く、先祖と子孫は一緒にいます。全部が「同時に生きている」ことになるのです。吉田松陰や坂本龍馬と現代の我々、遠い先祖と今を生きる私たちなど、全てが一つになっています。

昔の人たちは、そういう一体感観を自然に身に付けておりました。霊魂や先祖霊のことを「鬼神」といい、「鬼」は先祖や死者を意味しています。「鬼」は、人がお面を被った様子を表した漢字です。

お祭りのとき、誰かがお面を被って死者の役を演じました。死者と生者が、一緒になって歌い舞うということになります。そうすることによって、先祖と我々が一体であることを知らせてきたのでした。

生きるということは、死へ向かうということです。どう生きるかは、どう死ぬかに他なりません。何のためなら死ねるか。自分は、どういう最期によって念子のヒモに加わるか。それを極めてきたのが日本精神でした。

まさに死は終わりではありません。念子体による次の生のハジマリなのです。
(続く)