No.116 世の中は「お互い様」、長い道中を助けたり、助けられたり

◇善悪以前の本源である「道」としては、悪人を見捨てるわけにはいかない◇

善人は「立派な言葉(美言)」を話します。それによって高い地位に就いたり、利益を手に入れたりすることが出来ます。善人はまた「尊い行い」によって、他人に施しを与えることが出来ます。これらの善行は、儒家が模範とするところです。

「だが、不善の人も(道を保っているのだから)何で見捨てられようか」と。
儒家の価値観では不善人と蔑まれてしまうものの、不善人だって「道」に抱かれながら生きています。善悪以前の本源である「道」としては、悪人を見捨てるわけにはいかないのです。

ものの見方の入り口を「観門」と言います。観門の中に「表観」と「裏観」があります。表観の基本は見た目にあり、地位や名声などを重視します。当然のこと、善人・悪人の区別がはっきりします。儒家の場合、どうしてもこの表観に重きが置かれてしまい、いい人・悪い人を分けてしまう傾向が強いのです。

それに対して「裏観」では、見た目よりも相手の本体を観ようとします。
名刺に書き込まれた肩書きではなく、人間そのものを捉えてまいります。
見た目がみすぼらしくても、何ら名誉を得ていなくても、大した働きが出来なさそうに見えても、過去に悪を働いていたとしても、その人の本質的な価値とは無関係と観るのです。この裏観は、道家の得意とする観方です。

◇昔の日本人は、お互い補い合って働いていた◇

では筆者はどう考えるかというと、表観と裏観の両方備わるのがいいと思っています。「道」に基づく捉え方は常に全体観であり、表観も裏観も包含します。全体観は、達人に近付くための偏らない観方のことで「綜観」とも言います。

全体観に立てば、善人だけ評価する、能力のある人だけ尊ぶというのではなく、仕方なく悪を働いてしまった人や、努力はするのだが不器用に苦しんでいる人も受け入れる度量が芽生えてまいります。そういう雅量があってこそ、人をまとめる達人と呼べるようになるのです。

昔の日本人は、お互い補い合って働いていました。能力の高い人は低い人の分まで働くが、決して俸禄を法外に取ろうとはしない。仲間のために働けることそのものを喜びとしたのです。そういう日本人の気質に、幕末にやってきた西洋人が驚いたという記録もあるようです。

◇善良で不器用な人のほうが、長い目で見て役に立つことにもなる◇

人は誰でも、欠点があって不完全な存在として生きています。我が儘で頑固、勝手なところが多いという人にも役割があります。我の強さが旧弊を破る力になるでしょうし、欠点が周囲にとっての反面教師にもなります。

但し、注意すべきは「人間性そのもの」に問題がある場合でしょう。あまりにも要領よくやろうとし、結果的に嘘をつき人を騙すことになる。嘘がばれても言い訳ばかりで、我が身を省みることがない。能力は高いが、小賢しくて自己本位。要するに、自分に原因があるという自覚がないという場合です。
松下幸之助翁の言葉にもありましたが、いくら優秀であっても、そういう人は組織を壊す元にもなるということを知っておかねばなりません。

どんなに能力が高くても、根気が無ければ成功しません。むしろ善良で不器用な人のほうが、長い目で見て役に立つことになります。

人生も経営も、山あり谷ありです。世の中は「お互い様」であり、長い道中を助けたり、助けられたりしながら進むものだという落ち着きが、優秀な人ほど欲しいと思う所以(ゆえん)です。(続く)