No.130 また行きたいし次も見たい、もっと奥へ進みたいという余韻

◇あと少しで完成するというところで失敗してしまう◇

あとちょっとのところで何故止めてしまったのか。もう少し続ければゴールに到達したのに。そんな悔いが、誰の人生にも時々起こります。

途中で嫌になる理由とは何か。一番は「飽きてしまう」ということでしょう。
以前のように成果が出ない。成長を実感出来ないから達成感が湧かない。
結局、やっていることの意味が分からなくなる。それで息切れし、気持ちが続かなくなって止めてしまうのです。

老子は、そういう人に対しても救いの手を差し伸べました。「人民が仕事に従うとき、いつも殆ど完成するというところで失敗している。仕上げを慎重にすることが始めのようであれば、則ち失敗する事は無い」と言われたのです。

多くの人が、あと少しで完成するというところで失敗してしまう。それは、最初の頃のような慎重さを無くしているからだ。取り組み始めたときの前向きな使命感や、初々しい緊張感を失わなければ、そもそも失敗することは無いはずなのにと。

◇スランプ脱出のための「三つのカエル」◇

その失ってはならない「始め」とは一体何でしょうか。それは、今日一日の仕事の始めであり、仕事そのものの始めでもあります。

「本日開店」という精神を忘れず、最初のお客様をお迎えするときの緊張感で以て、本日最後のお客様に到るまで丁寧に接しようということです。一日100名のお客様が来店するのであれば、店側の意識は1対100になりますが、お客様は常に1対1の心で来店されているのです。

また、今の仕事を開始したときの思いも無くしてはいけません。開始したときの思い、それを原点と言います。原点は種であり、種から根を張った基盤であれば簡単には揺らぎません。原点から芽を出した事業であれば、年輪のように着実に生長していきます。

筆者は以前、スランプ脱出のための「三つのカエル」を提唱しました。スランプに陥ったら、そもそも何のために始めたのかという原点に帰り、仕事のズレを修正するために基本動作を振り返り、マンネリ化を打破するよう方法を変えてみようというものです。「原点にカエル」「基本にカエル」「気分をカエル」の三つによって、「始め」を取り戻そうという提案です。

◇何とも言えぬ心残りというものが欲しい◇

なお、この「仕上げを慎重にする」という姿勢と、これまで述べてきた老子の「完全を目指さない」というあり方が、どうも矛盾しているのではないかというご指摘が出てくるはずですから、ここでお答えしておきます。

老子の言う「完全を目指さない」という精神は、いい加減な中途半端を勧めているのとは違います。トドメを刺さないでいいと言っているのでもありません。

そうではなく、余白の価値や、伸び代を残すことの大切さを教えようとしているのです。山水画であれば、余白が全体への広がりをもたらし、絵の価値をより大きなものへ高めています。余白を全部塗ってしまうようだと、絵をただの部分にさせてしまうのです。

伸び代も重要で、後へ伸びていく余韻が無いようでは、単にそこで終わりになるだけです。

食事であれば、徒(いたずら)に満腹にさせるだけがトドメではありません。
強引に食べさせて「しばらくは来たくないなあ」と思わせてしまうようでは、決してプロのトドメとは言えません。

仕事である以上、相手に満足して頂くのは当然のことです。が、何とも言えぬ心残りというものが欲しいのです。また行きたいし、次も見たい・聞きたい。もっと奥へ進んで、本物を掴みたいという気持ちにさせてくれる余韻です。そういうプラスの心残りというものを生じさせてこそ、「慎重な仕上げ」や「真のトドメ」にもなるという次第です。(続く)