No.134 自由が御祭神の“自由教”、平等が御本尊の“平等教”

◇知識が増えるほど、部分観に陥ってしまう◇

人間生活にとって知識はとても重要ですが、何事も過ぎれば害となるもので、知識も偏れば弊害が生じます。

そもそも知識の基本は「言葉(文字を含む)」にあります。言葉には、それが何であるのかを定義付けていく働きがあります。それによって理解と分類が進むのですから、言葉の働きほど重要なものはありません。

しかし、その一方で知識(言葉)が増えるほど「部分観に陥る」という問題が起こります。物に対しても人に対しても名前が付けられた瞬間、「あれはあれ、これはこれだから別物」、「私は私、君は君であって別人」、「営業は営業だから販売だけ、経理は経理だから計算のみ」という分離観が働き、物事を全体的に捉えられなくなっていくのです。

◇言葉は、抽象的な概念に填(はま)っていく危険と隣り合わせ◇

また、言葉は抽象的な概念に填(はま)っていく危険と、いつも隣り合わせにあるということも忘れてはなりません。例えば「自由」や「平等」などという言葉が、言葉として一人歩きしますと、それらがこの世の絶対的真理であるかのような錯覚に陥ります。言わば、自由が御祭神の“自由教”、平等が御本尊の“平等教”が起こるのです。

自由や平等といった言葉は、それが何に対しての自由であり、どういう状況における平等の要求であるのかを明らかにしませんと、現実から遊離した観念に迷い込んでしまいます。観念とは頭の中だけで「それは在る」と思い込んでいる思考のことで、観念的に自由や平等という実体が存在していると信じてしまうことで、「勝手主義の自由」や「悪平等」が横行する社会が導かれていくのです。

仕事における「効率性」や「合理性」という言葉にしても、これらを経営の極意であるかの如く信奉してしまうと、やはり一種の観念となります。より良き仕事や経営のために効率性や合理性が考慮されるべきなのに、いつの間にか主客転倒して、効率性や合理性のために業務と会社が存在しているかようになってしまうのです。(続く)