No.136 賢の脆(もろ)さ、愚の強さ

◇賢しらだと、知識や能力を自分中心に使ってしまう◇

人民は賢くさせるのではなく、愚かにさせよ。そう教える『老子』第六十五章の内容を、そのまま肯定する人は少ないでしょう。人民を愚かにさせよとは何事だ、教育で知識や智恵を身に付けさせてこそ、人は成長して幸せになれるはず。それなのに愚民政治を勧めるとは、人を馬鹿にするにも程があると。

「賢」と「愚」、これらの言葉の意味をしっかり捉えませんと、老子の言いたいことを掴み損ねます。賢には「賢(さか)しら」の意があり、利口そうに振る舞う人、知識や能力を自分中心の成功や満足に使ってしまう人のことを言い表そうとしています。何でも一番で達成したい、仲間を押し除けてでも成功したい。早く世に出て認められたい、皆から称賛を受けて満足したいという私欲がギラギラしているのが、ここで言う賢です。

努力しようという意欲の高さや、成長したいという熱意を否定しているのではありません。それらが強いこと自体は大変立派な資質ですが、何でも仕切ろうとし過ぎて自分勝手をやったり、独断専行に走ってしまったりすることが問題になるのです。

そういう人は、少しでも自分の思い通りにいかない事があると、すぐ短気を起こし、怒りをどこかへぶつけようとして誰かを批判します。プライドの高い自信家ですから、滅多に自分が悪いとは認めません。ワンマンで自分が一番偉いと思っているのであり、旧いタイプの政治家や経営者の中に、そういう傾向の人が多く見受けられました。

結局、その刺々(とげとげ)しさが居心地の悪さを生んで、周囲が付いて来なかったり、焦って失敗したりで、中途半端に終わることが多くなります。個人プレーを基本に短期間で結果を出すことには優れていても、同志と共にじっくり年数を重ねて取り組むという作業には、どうも不向きであるというわけです。それが賢の脆(もろ)さです。

◇「愚」には、したたかな耐性や、しなやかな強靱さがある◇

一方「愚」には、したたかな耐性や、しなやかな強靱さがあります。愚は愚直の愚でもあり、純真な素直さがあるのです。敢えて目立とうとはせず、見た目の派手さに心奪われたりもしません。奇を衒ってわざわざ不格好にするわけではないものの、無理して格好良くしようともしません。

そして、思い通りにいかないからといって一々怒りません。悪く言われても「蛙の面に水」で平気。勿論(もちろん)中傷を受けていい思いはしないが、(余程の妨害でない限り)それで自分の価値が下がるわけではないし、特別何かを失うものでもないということから、言わせておけばいいという冷静沈着な態度を取れるのです。

誰にでも、人それぞれの感じ方や考え方があります。その違いを認める余裕を養えば、世の中にはいろいろな人がいるものだという達観に至り、非難を受けても次第に心に痛痒(つうよう)を感じなくなるものです。そういう鈍感な様子が愚の強さになるわけです。(続く)