No.6 読書は、自分を大きくするためにある

◇浅く学ぶと、器量が小さくなる◇

「もし(儒家と)似ていれば、とっくに小さなものになっていただろう」。
この言葉の意味について考えてみましょう。

儒家のキーワードに、仁・義・礼・智・信・徳などがあります。真心の「仁」、筋を通す「義」、理解力の「智」、誠実の「信」、品格の「徳」。これらは、いずれも大切な徳目です。

しかし、何事も浅く捉え、表面を飾ろうとすると弊害が生じます。
素晴らしい儒家の徳目も、立派だと認められたい、誉められたい。仁者らしく、義人らしく、智者らしく思われたい。まだ何もしていないのに信じて貰いたい、徳があるように見せたい、などと人目を気にし過ぎ、窮屈に考えますと人間が小さくなってまいります。

語句は沢山覚えられても、その意味の理解には至らない。そのくせ、教えの内容を元に、ダメな自分を卑下したり、相手を裁いたりする。折角(せっかく)時間をかけて学んだのに、自分を責めるか、そうでなければ他人を見下しているばかり。そうして、学べば学ぶほど、器量が小さくなっていくのです。

◇世の中を知らない道学先生◇

学問に励んでいるのに器量が小さくなってしまった者。これを「道学先生」と言います。部屋を覗けば、山のように本が積まれ、暇さえあれば常に書を開いています。風貌は学者然としており、世間知らずで、時代遅れな様子が一目で分かるというのが道学先生です。

本を読むといっても、文字ばかり追いかけ、頁(ページ)に埋没しています。語句の内容を自分に当てはめたり、現代に置き換えたりすることが殆どありません。道学先生が世の中を知らないのも当然です。

世の中を知らないというのは、人情の機微(細やかな人の感情)が分からないということでもあります。人間はこうあるべきだ、という(狭い意味の)道徳ばかり頭に入っていて、理屈に囚われ、堅苦しくて融通が利きません。世の人の辛さや切なさ、弱さや悲しさというものに対して鈍感でいます。そういう風ですから、「道学先生の教えは全然役に立たない」という批判がこるのも当然です。

儒学思想に対抗して練られたのが、老子に代表される道家の思想です。狭量になりがちな、儒家の欠点を突いていることが本章からもよく分かるでしょう。

◇学問によって、本当の自分を知り、天と結ばれていることを覚る◇

江戸時代後期の学者であった佐藤一斎は、そうならないための読書の心得を述べていました。一斎の著書『言志耋録』の中に、次のような教えがあります。

「経書(儒学の経典)を読む」というのは、「我が心を読む」ことだ。
「我が心を読む」というのは、「天を読む」ことだ。

本を読めば、感動する内容に出会います。それは、自分の心との出会いです。本の中の、ある箇所に感動することによって、真実の自分を発見するのです。

そして、自分は天とつながっています。天命、天性、天分などの熟語が、そのことをよく表しています。天から受けた我が使命が「天命」、天から頂いた我が個性が「天性」、天から授かった我が持ち分が「天分」です。

学問によって、本当の自分を知り、天と結ばれていることを覚る。そもそも読書というものは、自分を大きくするためにあるというわけです。(続く)