No.9 叱って貰えることの有り難さ

◇怒られているのに嬉しくなるのはなぜ◇

上の立場の人から怒られたら、誰だってムカッときます。でも、嬉しさを感じる場合もあります。それは、自分に対する慈愛を感じたときです。自分に目を掛けてくれていることが分かり、温かさを受け止められたときなら、怒られているのに嬉しくなるのです。

ところが、怒鳴られることは同じであっても、熱いのは頭だけ。腹の中は冷たくて、自分の都合しか意識に無い。思い通りにならないことへの腹いせで怒っているのであって、仕事に対する熱心さも、相手への情けも皆無。こんな上役では、誰も付いていきたくなくなります。

老子は「慈愛を以て戦えば則ち勝ち、守れば則ち固し」と言いました。慈愛の「慈」には、慈しみの心によって、哀れんで情けを掛けるという意味があります。

仲間や部下の、仕事が分からない辛さや、出来ない切なさ、独りぼっちの悲しみというものを可能な限り知る。その上で、素直に相手を思って諭すことを「叱り」というのです。慈愛を以て叱れば則ち思いが伝わり、慈愛で包もうとすれば則ち絆は固くなるというわけです。

◇心の中で手を合わせながら相手に注意する◇

そして、慈愛があれば申し訳ないという気持ちが起こり、心の中で手を合わせながら相手に注意することになります。自分だって出来ていないが、立場上言わねばならない。本当に申し訳ないと腹の中で合掌し、どうか良くなって下さいと祈りつつ、目を怒らせて叱るのが注意です。なかなか出来ることではありませんが、そこから人を導く求心力が生まれてまいります。

叱りたくもないときに叱るということほど、大きなエネルギーが必要とされることはありません。期待していなければ怒りたくはないし、心の中で見捨ててしまえば、もう何も言いたくなくなります。

叱って貰えるということ。それは大変有り難いことです。現代社会は他人を気にし過ぎて、叱って貰えることの有り難さを見失っています。

真に熱いものは冷たく見え、逆に冷たいものが熱く見えたりします。本当の善人は意地悪そうに見え、人を騙す悪人が優しそうに見えることもあります。

「天がまさにその者を救おうとすれば、慈愛で以て衛る」と。その救いや衛(まも)りとなる慈愛は、厳しさや激しさによってこそ表されるということではないでしょうか。柔らかな優しさばかりが愛情ではないのです。(続く)