No.12 自分よりも優れた者たちを受け入れていくのが名将の器

◇威張ることが好きな「御山の大将」◇

「御山(おやま)の大将」という言葉があります。御山は小山(おやま)と同じで、小さい山の上、つまり小集団の中で、自分が一番偉いと思って威張っている者のことです。

「御山の大将」は、傲慢に振る舞える場を欲しています。威張ることが好きですから、そのために「何でも言うことを聞く者」を集めようとします。

しかし、集まるのは自分以下の人間か、何らかの利を感じて来る者ばかり。自立力が高くて道理の分かる優秀な人ほど、底の浅い人間性に嫌気が差して去っていきます。気が付けば、下僕のように従うイエスマンしか残っていない。それが、「御山の大将」の常態です。

この「御山の大将」が、「表実・裏実」タイプの“悪く出た場合”の姿です。見かけが立派で資質も高いのですが、能力と同等か、それ以上に目立とうとする意欲が旺盛です。偉くなりたい、認められたい、誉められたいという、表観的欲求が激しいのです。

いくら意欲があっても、そのままでは自分以上に優秀な人を集めることは困難となるでしょう。自己中心的な振る舞いによって敵が多くなり、山に降った雨水が全て下っていくように、折角やって来た人たちが離れてしまうのです。

◇ご機嫌を取って貰うために大将がいるのではない◇

老子は、「巧(うま)く人を用いる者は相手の下手に出る」と言いました。「下手に出る」というのは、ご機嫌取りとは違います。仲間へ感謝や愛情を持ち、皆が成長し幸福になるよう願うことによって起こる謙虚な態度が「下手」です。

そもそも、仲間からご機嫌を取って貰うために大将がいるのではありません。仲間を伸ばし、同志を生かすために大将は存在しているのです。そういう心得が、「谷」の如き深い懐を養う基本となります。

いろいろな面で自分よりも優れた者たちを受け入れていく。それが名将の器というものです。

そして、「下手に出る」ことが普通に出来るようになれば、道家が理想とする「表虚・裏実」タイプに近付きます。表面は柔弱だが中身は強靱、見た目は優しそうだが実は何かの達人、ギラギラしていないものの深いところからオーラが滲み出ている、といった感じになってまいります。

こうして、武張らず、怒(いか)らない。敵に乗せられて、無用な争いをすることが無い。敬う心で相手の下手に出て、巧く人を用いていく。それが「不争の徳」であり、真に人の力を生かす道です。これが「天の極み」、則ち至上の天理に適った生き方なのです。

なお、「表虚・裏虚」タイプですが、これは表面的にも内面的にも虚しいタイプのことです。もしも自分がこのタイプならば、まず「裏実」、つまり中身の充実から心掛けるべきでしょう。「裏虚」のまま成果を焦るのが一番よろしくありません。基礎が定まらないまま形だけ整えようとしても、軸や柱が弱く、たちまち倒れてしまいかねないからです。(続く)