No.13 闘争が繰り返されるばかりでは、平和も幸福も永遠にやって来ない

◇勇壮な祭りにケンカは付き物◇

筆者の出身地である静岡県浜松市は、4帖から8帖の大凧による「凧揚げ合戦」が有名です。毎年、5月3日から5日にかけて行われ、町内毎(組毎)に揃いの法被(はっぴ)を着用して皆で凧を揚げます。

合戦というのは、凧糸の切り合いのことです。勇壮な祭りにケンカは付き物で、合戦中に取っ組み合いが起こることもあります。

筆者が10代の頃のことです。祭りに参加していたら、合戦中に他組との衝突が起きました。我が町の一人は相手側に引きずり込まれ、ボコボコに殴られました。相手側は雄叫びを上げて、そのまま去っていったのです。

異変を聞いて、陣屋からリーダー格の者がやって来ました。が、既にケンカは終わっています。彼は言いました。「おまえら、仲間がやられているだに何で放っておくだぁ。やられたらやり返さにゃダメじゃないか!」。

筆者は、理屈抜きに「その通りだ」と感じました。次に衝突したら、きっとやり返してやると思ったのです。

◇共同体や国家の形成は、人間社会にとって自然現象である◇

町内毎に「組」を作り、勝敗を競い合う激しさがある。そこに子供の頃から参加する仕組みがあるとなれば、祭りを通しての強い絆が生まれます。

筆者も幼い頃、凧揚げ会場に行けば、まず自分の町の凧を探したものです。自町の意匠が書かれた凧を見つけると、「どうだ」とばかり心中に叫び、とても誇らしくなりました。我が町という共同体に対する“強烈なナショナリズム”があったのです。

この帰属意識や、仲間を守ろうという心情。どこかに入りたい、加わらないではいられないという感情と、家族や友達を大切にしようとする思い。これらは、人間の本性ではないでしょうか。筆者は、これを「群れ気」と呼んできました。食い気や色気のように、群れ気もあると。

そして、これの大きくなったものが、愛国心や同胞への同志愛だと思うのです。大きさが違うだけで、基本となる精神は同じであるはずです。

人は一人では生きられません。仲間が必要です。仲間は、家族や一族、さらにムラとなりクニとなって大きくなります。共同体や国家の形成は、人間社会にとって自然現象であるというわけです。

しかし、そこに注意すべき点があります。一族と一族、ムラとムラ、クニとクニは、それぞれの利害を持っているのですが、単にそれを主張して奪い合うだけではなく、どこか折り合いを付け、共存し共栄する共生関係を創造しなければなりません。でないと、闘争が繰り返されるばかりで、平和も幸福も永遠にやってきません。

では、共同体や国家の共生関係をどう創造するか。その心得が出ている『老子』第六十九章を見ていきましょう。

◇兵法に、こういう言葉がある◇

《老子・第六十九章》
「兵法に、こういう言葉がある。「吾、敢えて攻め手とならず受け手となり、敢えて一寸を進むよりも一尺を退く」と。

これを、行かないでも行き、臂(ひじ)が無くても(臂を)攘(はら)い、敵が無くても(敵を)引き就け、武器が無くても(武器を)執ると言う。

禍は、敵を軽んずるよりも大きなことは無い。
敵を軽んずれば、殆どの吾が宝を失ってしまう。
だから、兵を挙げて攻め合えば、(戦いを)哀しんでいる者が勝つのだ。」

※原文のキーワード
兵法…「用兵」、攻め手…「主」、受け手…「客」、一寸…「寸」、一尺…「尺」、行かないでも行く…「行無行」、引き就け…「※ワードに無し、手扁+乃」、武器が無い…「無兵」、敵を軽んずる…「軽敵」、殆ど…「幾」、失う…「喪」、兵を挙げる…「抗兵」、攻め合う…「相加」(続く)