No.14 こちらが押せば、相手も押し返してくる

◇攻撃側に立つよりも、防御側に回れ◇

「吾、敢えて攻め手とならず受け手となり、敢えて一寸を進むよりも一尺を退く」というのが、第六十九章の最初の内容です。攻撃側に立つよりも、防御側に回れ。前進することよりも、後退することを心掛けよ。そういう教えが兵法にあるとのことです。

「攻撃は最大の防御」という心得からすると、「受け手」になれという教えは、あまりにも消極的です。そういうのんびりした考え方では、国家と国民は守れまい。現実無視の平和ボケに過ぎないという反論が起こることでしょう。

しかし、老子は防衛自体を否定しているのではありません。「攻め手とならず」というのは、好戦的にならないということです。非武装でいいとか、やられっぱなしで構わないと言っているのではなく、否定しているのはあくまで覇権主義です。「受け手」という言葉には、もしも攻めてきたら、そのときは「受けて立つぞ」という気迫が込められているのです。(原文では、攻めては「主」、受け手は「客」)。

◇こちらから余裕を見せ、不必要な緊張は起こさせない◇

国家間の関係というものは、人間関係と似たところがあります。大変デリケートで、何かと感情的になりがちです。外交も人間がやることですから、感情が反映するのも当然といえば当然で、少しの事で疑心暗鬼になったり、ちょっとした言葉で関係が悪化したりします。

そうならないよう、老子は「敢えて一寸を進むよりも一尺を退」けと諭しました。無理して僅か「一寸」前進することよりも、はっきりと退いたことが分かるよう「一尺」は下がりなさいと。

これを、国境線が後退しても平気で、領土を奪われても構わないという、亡国誘導の平和主義と受け止めてはなりません。

こちらが押せば、相手も押し返してくる。こちらが攻めようとすれば、相手も攻め返してくる。それが人間関係にも、外交関係にも通じる「反発の感情」です。

長期の紛争も、その起源は、案外小さな事が発端となっている場合が多いものです。些細な事でも、こじれたら厄介になります。そうならないよう、こちらから余裕を見せ、不必要な緊張は起こさせない。そのための心得が「一寸を進むよりも一尺を退く」ことなのです。

勿論実際に相手が侵略して来た場合は、そのまま放っておくわけにはいきません。そのときは断固食い止めねばなりません。また、相手が進出してきたくなるような隙を、こちらから見せているようでは困ります。

「退く」という言葉の本質は、単純に後退するということよりも、こちらから侵略的な姿勢を見せないということにあるのでしょう。その際、力の強い側、大国の側から余裕を見せることが肝腎であることは言うまでもありません。
(続く)