No.23 どんな分野であれ、何歩も先を行く先覚者が必要

◇人を育てる基本はマンツーマンにある◇

人に何かを教え、人を育てるということの基本。それは結局、マンツーマンにあると言えます。小さな集まりの利点の一つに、マンツーマンで教え易いということがあります。会なら師匠から生徒や弟子へ、会社なら社長から社員へ、大きな集まりに比べて人数が少ない分、一人ひとりに直接教えられる機会が多くなります。

その際、理念や心得、基本となる初級の動作については、きちっと教えなければいけません。そうでないと、中途半端な我流タイプばかりが増えてしまいます。

その一方で、教え過ぎない教え方、余分なことは教えないという“不親切さ”も必要です。基本は教えるものの、堅苦しく型に填め込んで終わりということにはしないのです。

実際、自力でコツを掴むことが求められる中級以上は、一々手取り足取り教えられません。他人のやり方を見てコツを盗み取る、鋭い眼力というものが必要になります。

また、自分の流儀というべき創造性が求められてくる上級者になると、もはや独立自尊の環境で自修自得して貰うしかなくなってまいります。全然関係ない分野から気付きを得、それを自分に置き換えて上達に生かすというのがその一つで、「気付きと置き換え」は、いかにも上級者らしい自修自得の方法でしょう。

師匠を務めるならば、そこまで弟子を観なければならず、そういうことも含めてマンツーマンを忘れてはならないというわけです。

◇何事も先を行き過ぎると、世間から理解して貰い難くなる◇

さて、何事も先を行き過ぎると、世間から理解して貰い難くなる傾向があります。世の中の半歩先なら広がるが、何歩も先を行くと理解者は大変少なくなると。

ならば、自分の代で普及出来なくても、後世になって広まればいい。自分の仕事は「深める」ことにあり、「広める」のは弟子たちに任せようという達観の道もあるでしょう。

南無阿弥陀仏と唱える称名念仏の意味を深めたのが親鸞で、それを広めたのが蓮如であったいうような連係プレーです。蓮如が現れるまでの本願寺は、あまりにも信者が少なく、寂び寂び(さびさび)としていました。

親鸞は、仏の慈悲を頂いていることへの感謝に、称名念仏の意味があるということを覚りました。それまでの「行の念仏」から、「感謝の念仏」に深化したのです。しかし、それを理解出来る弟子・門徒は少なく、宗派の繁栄は、普及の天才・蓮如の登場を待たねばならなかったのです。

◇孔子や老子の場合も、教えが広まったのは死後になってから◇

孔子や老子の場合も、その教えが世に広まったのは死後になってからでした(老子については存在時期に不明瞭な点があります)。生前に認められなかった分、本来受けてもよかった名声や評価が、死後に回されたということかも知れません。

兎に角、どんな分野であれ、何歩も先を行く先覚者が必要です。生きている間は報われなくても、後になって世の中に大きく役に立つ何かを残す。それが先覚者の人生です。大衆文化、大衆消費経済に覆われた現代社会にあっても、先覚者は、将来のために無くてはならない存在だと思います。

そういうことで無為自然のあり方からすれば、広めるべき事は広めればいいし、そもそも広まるものは自ずと広まるはずであると。また、広めない方がいいものは、そっとしておくのが天理に適うということになるのでしょう。(続く)