No.25 学べば学ぶほど、まだ学んでいないことの多さを知る

◇「知」には段階がある◇

さて、一口に「知」といいましても段階があります。単に知識として知っているのか、見識として意見が言える程度まで理解しているのかです。さらに、行動の元になるところまで学び取っていれば、その知は胆識レベルということになります。

明代の大思想家で、行動哲学の大家である王陽明は、知ることと行うことは一つであるとする「知行合一」を唱えました。知ったからには行わなければ意味はなく、行動して初めて知識は完成するという思想で、これこそ胆識レベルの知です。

また、知には、知事や知略という熟語があります。これには、司る(治める)、計るという意味があります。これも胆識レベルの知でしょう。

◇何でも知っていると思うのは傲慢不遜◇

私たちは子供の頃から、常に知識を競い合う環境の中で育ちました。知らないということは何よりも恥であり、人より一つでも多く知っているということが、偉さの証拠であると考えられてきました。試験でいい点数を取ることが、人間としての優秀さの証(あかし)であるとされてきたのです。

しかし、試験でいい点数を取ったところで、ただ知識として知っているという段階に過ぎません。知恵でも知略・知謀でもないのです。

老子は、そういう知識レベルの知に右往左往している人たちに向かって、「知っていても知らないとするのが上等で、知らないのに知っているとするのは欠点だ」だと諭しました。知っていると思っている間は、まだ知らないのであり、知らないということが分かって、初めて知ったことになるという意味です。知識をひけらかし、知ったかぶりをすることの醜さを指摘したかったのでしょう。

何でも知っていると思うのは傲慢不遜で、どんな分野であれ学べば学ぶほど、まだ学んでいないことや知らないことの多さに愕然とします。本当によく知っているならば、「私は何も知らない」と素直に答えることになるというわけです。
(続く)