No.26 見えている世界の、もっと奥を見通す力が欲しい

◇知らなければそこで終わり◇

単なる知識では、「知の限界」がすぐにやってきます。知っているところまでしか分からない。知らなければ、それ以上どうしようもないという意味の「知の限界」であり、それでも知っているふりをしてしまえば病癖(欠点)となります。

試験やクイズに答えるときのようなもので、知らなければそこで終わりです。知らない以上、手も足も出ません。悪あがきして知ったかぶりをしたところで上手くいくわけがなく、嘘を言えば、その人の欠点になるだけです。

老子は「(でも)欠点を欠点とすれば、それで以て欠点ではなくなる」と言いました。知らないのに知っているとするのは欠点であるが、冷静に知らないことを知らないと受け止められるなら、その自覚によって知らないことは欠点でなくなるという意味です。

そして、無為自然に生きる道家の「聖人に欠点が無いのは、欠点を欠点としているからである。それで以て欠点ではなくなるのだ」と。

◇物事の本質・真理を掴み、全体像を大局的に覚る力◇

また、知っているだけではどうしようもないというのも、「知の限界」の言わんとするところです。知識を知識のまま終わらせてしまって見識に生かさなければ、クイズには答えられても自分の考えや意見というものは出てきません。さらに胆識に深めなければ、あれこれ喋ることは出来ても行動には至りません。

この知識よりも見識、見識よりも胆識のほうが優れているとする見解は、儒家として正しい見方です。筆者も胆識の重要性を力説してきました。

ところが、道家の聖人は、その上を行こうとしています。それら「知の限界」をよく弁(わきま)えつつ、知識レベルはもとより、見識レベル・胆識レベルの知をも超えようとしているのです。意見も行動も大事だが、それらが道(天地自然の原理)に適っているかどうか。道に適うために、物事の本質・真理を掴み、全体像を大局的に覚る力を発揮しているかどうかが肝腎であると。

◇観えている人には観えているが、観えていない人には何も観えていない◇

実際、物事の本質や真理、全体像というものは、知識を頭の中で巡らせただけでは、なかなか観えてきません。五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)を駆使しつつ、第六感(心覚や直感)も鋭敏に働かせ、感性豊かに全身で物事に当たらねば、本質や真理を掴むことは出来ないのです。

全体像が見え難くなるのは、知識が増えるほど、物事を「あれはあれ、これはこれ」というふうに分析・分類する方向に偏っていくからです。部分観は発達するものの、全体を直覚的に把握する力(全体観)は、逆に弱まる傾向にあり、視野狭窄に陥るというわけです。

まさに、観えている人には観えているが、観えていない人には何も観えていないという世界が、そこにあるのです。

◇まず「知っていても知らないとする」態度が必要◇

天地自然の原理である道の感得・体得も、豊かな感性と全体観が必要なことは言うまでもありません。大宇宙を造化発展させた意志、生命を誕生化育させる働き、人と自然、人類と文明のつながりなどは、見えている世界の、もっと奥を見通す力を発揮させねば何も分からないで終わってしまいます。

それらを掴むためには、まず「知っていても知らないとする」態度が必要であるとし、その不知(知らないこと)の自覚によって、老子は知の限界を破らせようとしたのです。

インターネットの発達によって、我々は必要な知識・情報を直ちに取得出来るようになりました。でも、知恵としてはまだ知らなかったり、見識・胆識に深めつつあるものの、全体観を忘れていたりします。文明の発達の中で、一度素直に知について振り返ってみる姿勢が欲しいということでしょう。(続く)