No.27 出来るだけ手を加えない政治がいい

◇徳治と法治と礼治◇

「徳治」や「法治」という言葉を聞いたことがあると思います。これらは中国思想が教える政治の基本です。

「徳治」とは、仁や義を重んずる「儒家」が理想とする政治で、為政者の徳の力(人間性や人間力)で治めるものです。

「法治」は、法や刑罰を重視する「法家」が目指す政治で、為政者の持つ勢位(権勢や地位)を基本に、法と刑罰で人民を治めようとします。

教化によって人間の善性を引き出そうとするのが儒家であるのに対し、人間を「利で動く存在」と捉え、教育よりも法と制度を重んじるのが法家というわけです。

この中間に、「礼治」というものもあります。礼は習慣や作法のことで、これに外れると恥を被ることになります。礼には法のような強制力はなく、非礼を働いても(基本的に)罰が待っているわけではありません。でも、誰でも恥をかくのは嫌ですから、礼に外れないよう自分を律することになります。その体面を重んずる思いによって、社会に秩序を起こそうとするのが礼治なのです。

礼治は、荀子という思想家が唱えたもので、分類上儒家に含まれます。儒家の理想で順番を言うならば、徳治、礼治、法治ということになります。

◇儒家や法家は、人や社会を型に嵌めようとする◇

さて、これら徳治、礼治、法治は、老子によれば、いずれも「人為の政治」ということになります。人為は「人の手を加える」ことであり、人の仕業として、わざわざ行う様子を表しています。

天地自然の原理である「道」を尊ぶ老子は、人為を道に外れる行為として嫌いました。儒家の教化(倫理や道徳)も、法家の制度(法と刑罰)も、要は人間が恣意(しい)的に行うことであり、そこには作為が込められていると。いずれも、人間や社会を、型や枠に嵌め(はめ)ようとするものであるから良くないと批判したわけです。

儒家にしても法家にしても、人間というものは自然のままにしておいたらいけないのであり、放っておいたら乱れてしまってまとまらない存在であると見ています。それに対して老子などの道家は、人間が生来持っている徳(先天の徳)を生かし、その本性に従った政治を行えば、もっと上手くいくはずだと考えました。要するに、出来るだけ手を加えない政治がいいということを提唱したのです。(続く)