No.32 君子による善政を待っていたら、「待ちぼうけ」となってしまうのか

◇普通の人によって社会が成り立っている◇

儒家の基本は教化にあります。人は学問によって成長するということを前提に、人間性の高い社会をつくろうと志しています。そして、教化によって立派な人、則ち君子(くんし)が増えて徳で治まる世の中になれば、法と刑罰などというものは、必要最小限で済むようになると考えたのです。

それに対して法家は、人を教え導くということを端(はな)から放棄しています。道徳や倫理によって「人の道」を教えたところで、それを真剣に学んで修得出来るのは、全体から見たら少数であると判断しました。大多数の人間は、道義を尊ばないか、頭では道義の大切さを分かるものの、実践には及ばないところの小人(しょうじん)に過ぎないというわけです。

法家思想を集大成した韓非子は、社会というものは、この小人=普通の人によって成り立っていると考えました。普通の人は、自分と家族など身の回りの者との関係を、最優先に置いて暮らしています。そして、人格も識見も並であり、率先して国家を変えたり、国民を救ったりしようとすることは殆どありません。

また日常、大義よりも小利のあるほうに気持ちが向いています。何かに付け、小さな利益に弱いのです。

そのくせ、いつも周囲の目を気にしていますから、(魔が差さない限り)悪を働いて平気ということはなく、回りから悪者、ダメな人間などと見られることを嫌っています。

要するに、特段優れてはいないが、酷(ひど)く劣ってもいないという、中程度で通常の人たちが「普通の人」なのです。法家では、これを「中」や「常」と呼んでいます。

◇中程度の指導者が、中程度の国民を統率している…◇

普通の人で社会が成り立っているということは、中程度の人々こそ、社会の主役であるということになります。一般庶民だけではありません。指導者層とて、その多くが中や常に過ぎません。そうであれば、中程度の指導者が中程度の国民を統率しているのが現実であり、そのための方法を練り上げねばならないという結論に至ります。

それによって編み出されたのが、「法」の運用と組織掌握のための「術」(信賞・必罰など)です。あるいは、カリスマ力の劣る指導者に威厳を持たせるための「勢位」(権勢と地位)の確立でした。

韓非子としても、儒家が理想とする聖人が存在するということは知っています。私利私欲を捨て、自己犠牲を厭わないで天下国家のために生きようとする義士や義人です。

でもそれは、どの時代でも少数であり、いつも現れてくれるとは限りません。出現しても、しかるべき地位に就くまでに時間が掛かります。

結局、君子による善政を待っていたら、「待ちぼうけ」となってしまいかねません。儒家の言うことを信じたところで、社会の秩序が整う日は果たして来るのか、来るとしても一体いつなのか、という問題意識が韓非子にはあったのです。(続く)