No.39 罰は天が下すもの

◇罪を犯す者の「人間」まで見捨てたりしない◇

では、法治に対してはどうでしょうか。天治は、法と刑罰に厳格な法治をどう包むかです。

法は拘束力のある規範です。これを破れば、誰であれ定められた罰を受けることになります。権力者の身内だからとか、知り合いや友人だからといって、大目に見るということは法治主義にはありません。

道家といえども、犯罪を見逃すことが出来ないのは当然であり、決まられた法律に違反する者を、容認したり養護したりするわけにはまいりません。
しかし、罪を犯す者の「人間」まで見捨てることをしないのが天治の対応です。

誰だって、罪人になろうとして罪を犯すわけではありません。同情の余地が無いほど凶悪な犯罪は論外として、同情すべき何らかの理由があるものです。

悪いと知りつつ法を犯し、いけない事と分かっていながら、行き掛かりからそうせざるを得ない状況に追い込まれることが、人生には起こり得ます。
人助けをしようと思って善意でした事が、一転して他の人に迷惑を掛けることになり、結果的に犯罪行為と見なされることだってあります。何かと矛盾に満ちているのが、人間社会の性(さが)というものです。

◇法と刑罰は、あくまで社会の秩序を維持するための手段に過ぎない◇

そうして犯罪者となった者を、そのまま切り捨ててしまっていいかどうかです。罪の程度によるものの、再チャレンジのチャンスを残してあげたいものです。罰を受け、悔い改めた後は、その人を許して普通に受け入れる。それが天治の考え方です。

法と刑罰は、あくまで社会の秩序を維持するための手段に過ぎません。本当は、法が少なく、刑罰の行われない世の中が理想です。いつの間にか、法を多くすることや、刑罰を盛んにすることが、あたかも成熟した国家であるかのように誤解されてしまったように思われます。

法治としても、犯罪者を叩くのが目的ではないでしょう。可能な限り犯罪を少なくし、未然に事件を防ぐ。それが法を制定することの意味だったはずです。

そもそも、人為の努力が足りなければ自然の報いを受けることになるように、「罰は天が下すもの」で、「裁きは天や神仏の仕事」というのが天治の立場です。人が人を裁くのは天に代わって仕方なく行うことであり、法に関わる仕事は、公明正大でなければならないのは当然のことです。

こうして、徳治・礼治・法治を天治で包むことの出来る人物、儒家・道家・法家の綜合的バランス力のある指導者(聖人)が続々と生まれれば、きっと住み易い世の中が創られると思うのですが如何でしょうか。(続く)