No.42 豊かであった江戸期の農民

◇相対的に年貢の額は減っていった◇

「人民が飢えるのは、支配者が税金を沢山取るからだ。それで飢えることになる」。老子のこの言葉を聞くと、それはまさに近代に入る前の、我が国の農民の姿であったと思うことでしょう。江戸時代は身分の差がはっきりしており、生かさず殺さずという方針の下、農民は常に搾取に苦しみ、食うや食わずの境遇に喘(あえ)いでいたと。

それが定説でしたが、近年見直しが進み、江戸期の農民は、意外にも豊かであったと考えられるようになりました。その理由は、「支配者が税金を沢山取る」からいけないという、老子の指摘の逆であったところにあります。江戸時代の税金は、想像していた額よりも、ずっと少なかったのです。

当時の財政は“米本位制”で、税金は米で納められるのが基本でした(大豆や貨幣で納めることもある)。それを年貢と言い、収める割合は検地による査定(石盛)が基準でした。大がかりな検地は豊臣秀吉が実施した太閤検地(天正の石直し、1582~1598)で、検地はその後もあったものの、17世紀頃の査定額がそのまま続き、以後あまり変わらなかったようです(検地の対象は田・畑・屋敷の土地であった)。

その一方で、農業技術が次第に進化し、生産力は着実に向上しました。査定がほぼ元のままであったところへ収穫高が増加したのですから、(名目上の年貢率が増えたとしても)実質的な額は減ることになり、初期の「四公六民」(収穫高の4割が年貢)から、1割強~3割の年貢に減少したようです。江戸初期の社会秩序建設期は大変だったものの、やがて長期に渡って農民に余裕が生まれていったというわけです。

◇顔色も肉付きも良好であった日本人◇

余裕の元は他にもあります。年貢さえ納めてしまえば、それ以外の手間仕事や農閑期の副業などによる収入は、概ね非課税でした。産物の生産や流通などにかかる雑税(小物成)はありましたが、それは大まかな制度であり、農家が農閑期に作った蓑(みの)や草鞋(わらじ)を売ったところで、いちいち税金を課せられるということはなかったのです。

江戸期の農民は米作ばかりしていたというイメージがあるように思いますが、大規模米作地帯以外では、畑作や山での狩猟、海や川での漁労などに努力することで、米以外の収穫を確保出来ました。それらを換金すれば副収入となったのです。

農村が豊かであったということは、幕末維新期に日本にやって来た外国人の感想(ハリスなど)とも符合します。彼らは、日本の庶民に栄養失調は見られず、肉付きも良好で、幸福そうな暮らしをしているという記録を残しております。

あるいは、庶民の旅が盛んであったことの根拠ともなります。多い年では、年間486万人もの人が伊勢参りをしていたという記録があります。天保元年(1830)のことで、大流行の年(おかげ年)であったとしても、当時の人口が約3千2百万人であったことからすれば大変な数になります。人々にお金の余裕があってこそ、あり得た事実なのです。(続く)