No.51 上り詰めた龍は下がるしかない

◇天の道に反する状態◇

弓の高いところと低いところについて、高いところはその中央部、低いところは両端であると説明しました。別の解釈として、高いところは弓の上端、低いところは下端という説もあります。弦を張るとき、上端は縮め、下端は引き上げるからです。どちらの解釈も、言わんとすることは同じです。

高くて余りあるものを縮め、低くて足りないほうを補うのが天の道なのですが、人の道は逆だと老子は嘆きます。「不足なのにもっと減らさせて、余っているところに与えてしまう」と。貧しい者から厳しく取り立て、豊かな者が益々富むような悪政がそれです。弱者が守られていなければ、政治は機能していないのと同じであり、天の道に反する状態となります。

◇無為の聖人には余裕がある◇

しかし、「その余裕で以て、天下に奉仕している」者もおります。「道に則った無為の聖人」がそれです。

無為の聖人には、余裕というものがあります。山と谷なら、谷のように受け入れる余裕です。谷には山のような威厳はありませんが、雨水を残らず集めてしまう無限の器量が備わっています。

また、無為の聖人は、敢えて天下の先に立とうとしませんから、回りを立てていく余裕が生じています。俺が俺がという出過ぎた態度がなく、その包容力によって多くの人々が引き寄せられます。皆から慕われ、仲間が寄って来るところの優れた人間力があるのです。

無為の聖人には、焦らない余裕もあります。無理な事・余分な事はせず、自然な成長を促し、成果を辛抱強く待ちます。無理矢理引っ張って根こそぎ抜き、一切をダメにしてしまうようなことがありません。慕い寄って来た人たちは、自ずと(自発的に)育っていくことになるでしょう。

◇限界をつくるのは自分自身◇

そもそも、ある分野に優れ、何かに秀でているということは、天から役割が与えられているということに他なりません。それを生かして、世のため・人のために働きなさいと。

天から授かった個性が天性、天から与えられた持ち分が天分であり、これらを生かしてこそ天命(天から受けた我が使命)が果たされます。力が強ければ力で、頭が良ければ頭で、人柄に優れていれば人間力で、金儲けが上手ければ金力で、若ければ活力で、老人であれば経験と知恵で人を助ければいいというわけです。

そして、無為の聖人は人を助けても淡々としています。「何かを為しても手柄とせず、功成りて居座らず、偉さを見せびらかそうと」しません。

何事であれ、限界をつくるのは自分自身です。手柄を誇り、成功した場所に居座り、偉さを自慢するようになったときに亢龍(こうりょう)となるのです。亢龍とは上り詰めた龍のことで、後は下がるしかない様子を意味します。そうならないための教えが老子にあるという次第です。(続く)