No.59 変わり者扱いされたり、煙たがられたり、嫌われたり…

◇松下政経塾には、通常の組織からはみ出した豪傑が集まっている!?◇

若い頃の筆者は、目上の人に対して臆することなく、はっきりものを言う人間でした。一期生で入塾した松下政経塾でも、年上の職員の皆さんを前に、率直に意見した記憶があります。

今から思えば生意気で大変恥ずかしいことですが、世間知らずの当時の私からすると、松下電器から出向して来ていた職員の皆さんの言動が、何だかサラリーマン然としていて面白くなかったのです。

当初、松下政経塾は昭和の松下村塾と言われたこともあり、私は塾に対して次のようなイメージを抱いておりました。

松下政経塾は、既成の価値観に囚われない、剛毅奔放な自由人(自立人)が腕を磨く修行道場である。そこには、通常の組織からはみ出した、底知れぬ豪傑が続々と集まって来る。

一応、入塾試験に合格した者が入寮するが、切磋琢磨を望む若者は誰でも聴講出来る。彼らは(塾内にある)体育館に、寝袋持参で雑魚寝してもいい。塾で勉強になると感じたら逗留すればいいし、ここには学ぶべき人物がいないと感じたら遠慮なく去ればいい。

そして、正規の塾生と聴講生が議論し、胆力を競い合う。もしも正規塾生が劣るようなら、その立場を潔く優秀な聴講生に譲るべきであると。

記憶では、このような内容を同期生や塾職員に話しています。反応はとても悪く、体育館に宿泊されたら授業に使えないだの、施設を目的以外に使用したら問題になるとか、何か起こったら責任問題になるとかで、とにかく管理する者の立場からの返事しか貰えなかったのです。

◇松下政経塾は松下村塾ではなく、藩校の明倫館になってしまった…◇

また、私はこうも言いました。松下政経塾は松下村塾ではなく、藩校の明倫館になっている。塾生たちが総出で塾舎の増築を手掛け、共同作業を通して一体感が生まれていった松下村塾に比べ、松下政経塾は初めから権威が備わり、硬直化した公立学校のように運営されていると。

実際、筆者以外の塾生はスマートなエリートばかりでした。塾の役員には名士が名を連ね、講師は一流の学者が揃い、六千坪を超える広大な敷地に立派な研修棟や寮が建ち、最初から何でも揃っていました。だから明倫館だと言ったのです。

勿論、経営の神様が塾長を務める塾なのですから、きちんと体制を整えて開塾しようとするのは当然のことです。必要な物が揃っていなければ財団の認可が下りないのですから、開塾の準備を担当した方々のご苦労には大変なものがあったことと推察します。

◇鶴の一声で松下政経塾に入塾◇

しかし、当時20数歳の私には、そういう実務的な問題が分かりません。何で形式に拘るのだろうという疑問しかわいてきませんでした。言い方もかなり生意気でしたから、変わり者扱いされたり、煙たがられたり、嫌われたりという結果しか残りませんでした。

塾職員から、よくからかわれました。「林君は運だけで塾に入った塾生だよ。運というのは松下塾長の一言でね…」。塾長の一言というのは、「アホでも構へんから採っておくように」という鶴の一声でした。

入塾試験の最中に、いち早く松下塾長は筆者の存在を知ったのだそうです。そして、おもろい奴と思って下さり、こいつは他の試験が不出来でも、とにかく入れなさいということで鶴の一声が下りたのです。要するに、私は松下幸之助塾長に拾われた人間だったのです。

さて、一旦恨みを買って嫌われますと、いつまでのその余韻が続き、なかなか和解することが難しくなります。後になって和解に苦労するようなやり方は良くない。最初に注意しておくべきだ、ということを老子は諭しています。20代前半の筆者が是非とも知っておくべきだった内容が、『老子』第七十九章に出ております。(続く)