No.64 どういうときに怨みの感情を抱くのか

◇京都人からすれば不粋の極み◇

『老子』第七十九章の続きです。「有徳の者は手形による信用取引で決済し、無徳の者は徴税のように現物で取り立てる」と。

原文では、前者の「手形で信用決済する」のが「司契」、後者の「徴税のように現物で取り立てる」のが「司徹」です。司契の「契」は木札の証文(割り符)のことで、「契約」という熟語はこれが元になっています。司徹の「徹」は、周代の税制である十分の一税のことです。「司」は「管理する」といった意味で、司契は信用取引を管理する、司徹は現物での取り立てを管理するということになります。

先に述べた京都の伝統的な商いは、まさに司契が基本となっております。「付け」があるほうが客をつなぎ止めておけると考えられるのは、信用を重んじているからに他なりません。それに比べ、相手を疑い、踏み倒されないよう現物で取り立てる司徹は、京都人からすれば不粋の極みとなるでしょう。まさに有徳と無徳の違いです。

◇「仕切り気」が傷付けられ、嫉妬と怨恨が渦巻く◇

さて、本章の主題である「怨み」について、さらに考察してまいります。老子は「大きな怨みは、和解させても必ず怨みが残る」と言いました。

一体どういうときに、人間は怨みの感情を抱くことになるのでしょうか。一つには、面子(めんつ)を潰されたときです。

こちらに挨拶に来るはずの相手が何も言ってこない、あれこれ世話を焼いてやったのに一言の御礼も無い。或いは式典などで、VIPであるはずの自分が紹介されない、自分だけ挨拶をさせて貰えない、などという場合に「この俺を無視したな」ということで面子を失うことになります。

また、「仕切り気」を損ねたときも怨みを感じます。これは筆者の造語ですが、人には食い気や色気の他に「仕切り気」という欲求があります。誰にでも自分の縄張りや持ち場という領分があり、普段そこを仕切ることで存在感を満足させております。

ところが、自分を超えそうな相手が現れて縄張りを荒らされたり、持ち場の役職から外されて、まとめ役ではなくなったりしますと「仕切り気」が傷付けられます。有能な後輩が現れたときの先輩や、能く出来る嫁を迎えたときの姑の感情も同じことです。そうして「自分は仕切り役ではなくなった」と感じるに至りますと、嫉妬と怨恨が渦巻くことになるわけです。(続く)