No.65 地位や名誉などというものは、有ってもいいし無くてもいい

◇意外なほど些細な出来事で、怨みの感情を起こしてしまう◇

こうして、金銭の貸借によってトラブルが生じたとき、己の領分を荒らされて「仕切り気」を損なったとき、面子(めんつ、体面・面目)を潰されて恥をかかされたときなどに、人は怨みの感情を起こすことになります。

金銭トラブルは、保証人となったことで家屋敷を失うとか、儲け話で騙されて多額の借金を背負わされるなど、決して小さな出来事とは言えません。

ところが、仕切り気を損ねるとか、面子を潰されるとかいう話になりますと、端から見たら何でもなさそうに思われることが発端となることのほうが、むしろ多いように思われます。

戦いに負けた、怪我を負わされた、家族を失ったなどという重大事が起これば怨むのは当然のことですが、人間は仕切り気や面子に対して繊細な感情を持っており、意外なほど些細な出来事で怨みの感情を起こしてしまうことがあるのです。

例えば仲間と一緒に食事に行き、自分だけ吸い物が付いていなかったとか、ラーメンに一切れの焼き豚が乗っていなかったというときに、一体どういう感情を持つことになるかを考えてみるといいでしょう。「何で自分だけ無いの?ひょっとして店の人の意地悪?」などと勘ぐってしまうはずです。あるいは、自分より後から来た客に、先に料理が出されるのを見たときもそうです。そういう場合も、面子を潰されることになるはずです。

◇道家の聖人は「表観」に囚われない◇

政治家が会議を開く場合、準備に大変気を遣うという話を聞きました。席順や挨拶の順番を間違えると、怒りを買って(場合によっては)後でとんでもないことになるらしいのです。会の主催者らは、参加議員の当選回数や役職などを考慮しつつ、慣例に従って細心の注意を払わねばなりません。

そういう中で、余分な力を抜いた「道家の聖人」の存在が、とても光ってまいります。余分な力を抜くというのは、「表観」に囚われないということです。表観とは見た目や肩書きを重んじる観方のことで、地位や名誉、役職などを重視します。それに対して道家は「裏観」に身を置いており、表観的価値に拘りを持ちません。

地位や名誉などというものは、有ってもいいし無くても構わない。天から授けられた使命として、または努力と成長の結果として肩書きが与えられたなら受ければいいし、役割を終えたときは潔く去ればいいだけのこと。席順や順番を後回しにされたところで、自分という人間の中身が変わるわけではないのだから全然気にしないというわけです。(続く)