No.83 徳の低い知識人が陥る限界とは…

◇老子は知の弊害を指摘した◇

信実の言葉は美しくなく、善なる者は雄弁でなく、知る者は博識でない。
これだけ聞くと、まるで言葉や知識の全否定のようですが、決してそうではありません。

老子は知の弊害を指摘したかったのです。美言や雄弁、博識によって、自己中心的な意識や狡猾(こうかつ)な行動が、覆い隠されてしまう現実に注意を与えようとしたのです。自己中心的な意識とは、何事に対しても
「自分の損得」を基準に判断してしまう考え方のことであり、行動においても、それに基づいて悪知恵を働かせることになります。

損得を基準にすることの問題は、狭い利害得失に囚われることによって、ものの見方が部分観に陥り、全体が観えなくなるところにあります。全体観を見失えば、物事の核心(原点)や根幹が掴めなくなってしまいます。そのままでは、名利に釣られて生きるだけの強欲人生に堕落してしまうでしょう。

そういうタイプの人は、醜い私心を隠そうとするときや、正義そっちのけで対立する相手を叩こうとするときや、強欲に名利を得ようとするときなどに、一層身を乗り出して言葉に力を入れてくるものです。

◇部門や部署が違うと、何が起ころうが無関心◇

また、言葉には、その物に定義を与える働きがあります。名前が付けられると、それが何処に用いられ、どう使われるべき物かという、存在の価値や意味が明確になります。これを定義付けと言います。

ところが言葉(名前)には、定義付けによって、その物の可能性や用途を限定してしまう弊害(マイナス面)もあります。例えば会社で、営業、製造、経理というように部課を明らかにしますと、役割が明確になる一方で「あれはあれ、これはこれ」という分離観が起こるのです。

その結果、部門と会社全体の関係が見え難くなっていき、営業は販売成績、製造は出荷数量、経理は会計管理を、重点的に意識するようになってまいります。そうして、会社の目的や目標に目が行かず、自分の領分には熱心だが、部門や部署が違うだけで何が起ころうが無関心という状態に至るのです。端から見れば、大局に対して鈍感になっている様子がよく分かります。

行政も同じで、国、県、市町村という区分が一人歩きすると問題が発生します。あれは国の責任、それは県の担当、これが市町村の仕事、というように分離されていき、全体が噛み合わなくなります。困るのは、いつも国民や市民です。逆に、県と市が同じことをやってしまうという二重行政も要注意です。

兎に角、私利私欲に満ちた状態のまま、言葉(知識)が増えていくのがいけません。欲望と言葉が絡み合いながら増加し、それによって益々見方が狭隘(きょうあい)になっていく。そこに、徳の低い知識人が陥る限界があるわけです。(続く)