No.92 為せば為すほど不争となる

◇本来の自分に、如何にして復帰するか◇

文明生活の中で、溢れんばかりの情報や物、複雑な仕組みに囲まれて、我々は本来の自分を見失ってしまいました。翻弄される日々を過ごしていれば、自分の頭で考えることや、自分の体で感じることを忘れてしまうのも当然です。

淡い色、微かな音、薄い味などを尊ぶ老子にとって、文明社会の喧噪は、人間が先天的に持っている徳(樸、荒木)を損ねるものに他なりません。そこから復帰し、如何にして足(たる)を知って、本当の自分に帰るかです。

それには、一旦「無為」を潜(くぐ)ってから、真の「為」へ入っていくのがいいと老子は考えました。「聖人の道は、為して争わず」という最終章の最後の言葉が、老子の真意を示しています。

先に述べた通り、意識的に為さないことを為すという「無為を為す」の段階は通過点でした。これを超えないと、余分な力の抜けた、ただ「為す」だけでいいというレベルには至れません。

◇為すのは、常に不争のため◇

道家の聖人の生き方は、「為して争わない」ところにあったのです。為すべきことは為すのだが、それは常に不争が目的であると。

人間は、どうしても私心や我欲で事を為してしまいます。「無」「柔」「谷」などのキーワードが示している、しなやかな強靱さや無限の底力が分からないままだと、為せば為すほど世の中に争いが満ちてまいります。

本当の「為す」は、不争という大調和のためにあるということを教えたくて、老子はまず無為から説いのでした。不争の中には、無意味な戦争を避けるべきことは勿論のこと、天地自然の原理である「道」に順応することも含まれます。自然の作用や働きに逆らうことなく、これを生かすのも不争なのです。

為せば為すほど不争となる、それが真に為すことである。これが、老子が最後に言いたかったことの一言集約です。(完)