No.26 目に見える太陽を拝まないで、一体何を拝むのか

太陽を神様と受け止め、道徳の規準とすることは、幼稚な古代人の宗教のように見えるかもしれません。でも、そう思うことのほうが浅薄(せんぱく、浅くて薄いこと)です。

人間が何かを学ぶ場合、その多くが人間以下のものから受けています。鳩からも、烏(からす)からも、蜂(はち)からも、蛙(かえる)からも、牛からも、馬からも、兎(うさぎ)からも、亀(かめ)からも、あるいは鉄瓶(てつびん、お湯を沸かすときに使う道具)からも、林檎(りんご)からも学ぶことができます。森羅万象(しんらばんしょう、あらゆる存在と現象)が全て教科書であり、自分にとって師匠(ししょう、先生)とならないものはありません。

人間同士(どうし)においても、先を行く者の失敗は、後から来る者の教訓となります。成功者や賢者は、失敗者や愚者から学んでいることが多いものです。

また、幼い子供から教えられることがよくあります。教訓に「人のふり(振る舞い)見て我がふり直せ。愚か者も見よう(見方)で手本となる」と言われています。だから、必ずしも聖者賢人のみが我が師ではなく、幼子の言行から気付かされることも少なからずあります。

あらゆるものが師である以上、万物を育む本源である太陽に規範(きはん、お手本となる基準)を求めて何の不思議があるでしょうか。仏教では一つひとつ草木にも仏性(ぶっしょう、立派に成長する尊い性質のこと)があることを教え、その信徒(しんと)は一粒の米にも感謝し、一滴の水も無駄(むだ)にしないよう拝んで頂きます。

一本の草木も尊び、一粒の米や一滴の水にも感謝を捧げるのだから、生命の本源である太陽を崇拝(すうはい、あがめて拝むこと)して何がおかしいのでしょうか。むしろ、太陽に感謝し崇拝する心を持たないことのほうを恥じるべきです。

太陽が最高の規範であることを思いますと、これに最高の崇敬(あがめて敬うこと)の念を捧げ、帰依(きえ、信じてすがること)することが自然にできるはずです。

私たちに多大な恩恵を与えてくれるのが太陽です。もしも、目に見える実在(じつざい、実際に存在すること)の太陽に信仰心(信じて仰ぐ心)を持つことができないとしたら、目に見えない形而上(けいじじょう)の神(頭の中で想像された形を持っていない神)となると、信仰するのはもっと難しくなるはずです。

では、太陽の素晴らしい性質について列挙(次々挙げること)してまいりましょう。(続く)