No.29 同志や仲間を、歴史の人物に求めよ!

超然(ちょうぜん、何を言われても平気でいられるようす)

まだ一人前ではないときほど、いつも毀誉褒貶(きよほうへん、褒(ほ)められたり貶(けな)されたりすること)に心を動かされます。
少し褒められると有頂天(うちょうてん、得意になって思い上がること)になり、少し悪口を言われると、たちまち希望を失って肩を落とし、前に向かおうとする氣力を無くします。

褒められたり貶されたりすることに対して、どうしても超然(ちょうぜん)としていられないのです。超然とは、何が起きてもうろたえず、何を言われても平気でいられるようすですが、誰だって人から悪く言われたくないし、褒めてもらいたいものです。だから、人の声を敏感(びんかん)に気にしてしまうわけです。

言い換えれば、自分を認めてくれる友だち、分かってくれる友だちが欲しいのです。そして、友だちから認めてもらおう、分かってもらおうとすれば、自分がどう思われているのかが気になります。好かれていれば安心しますし、嫌われているならば心配になるのが人の心です。

また、自分に信念が無いのも、うろたえてしまう原因です。正しいと信じて進む道を見つけていないから、必要以上に一々(いちいち)世間の評判を気にしてしまうのです。

勝海舟(かつかいしゅう)という幕末維新の英傑がいました。海舟は「百年の後に知己(ちき)を待つ」と語ったそうです。今この時代に、よく分かってくれる人(知己)がいなくても気にしない。百年くらい経(た)てば、きっと自分の考えや行動を理解してくれる人が現れるだろうという意味です。

それくらい、自分の気持ちを十分(じゅうぶん)知ってくれる人は、なかなかいないのです。厳しく見れば、知己などというものは、全然いないのが普通とも言えます。

今日(こんにち)でさえ得られない知己が、百年後にどうして得られるのでしょうか。いっそのこと、人を待ったり誰かをあてにしたりしないで、知己は神に求めるというくらいの覚悟が欲しいものです。

道ばたで遊んでいる幼い子供から「バカな小父(おぢ)さん」と呼ばれても、我々は笑って受け流すことができます。「立派な小父さん」と褒められても、有頂天になることはありません。日本人であるならば、そういう超然とした態度でもって、ありのままの素直な心を大切にしましょう。太陽のような高いところに気持ちを置いて、動じることのないどっしりした自分を養おうではありませんか。

林英臣の補足:人を待ったり誰かをあてにしたりしないで、知己は神に求めるというくらいの覚悟」。この文の「神」は、昔の偉人や英傑(えいけつ)、ご先祖や先人と言い換えてもいいでしょう。今この時代に知己がいなければ、書物を通して過去に親友や同志を探すのです。そういう超然とした生き方は、最初は孤独であっても、やがて仲間や同志に恵まれてくるものです。(続く)