No.41 人間に人格があるように、物にも物格がある

紙一枚や、火をおこすときに使う炭(すみ)の欠片(かけら)一個も、それを生かさずに捨ててしまうようではいけません。10キログラムの荷物を背負えない者が、100キログラムの荷物を背負えないのと同じで、一滴の醤油(しょうゆ)や一本のマッチ、小さな電灯(でんとう)の灯りをムダにしてしまい、大切にできないような者に、人間と人格を尊重することなど、できるはずがありません。

塩味が利(き)いた漬物(つけもの)を食べるとき、もう味が付いているのだから、そこに醤油をかけるとしたら、それも一つの贅沢(ぜいたく)ということになります。なのに、醤油を器に溢(あふ)れるほど入れ、実際に食した量よりも、器に残して捨てることになる醤油の量のほうが多いというのは、物を生かさないでムダにするという意味で、とても罪深いことになるでしょう。

「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」を唱える浄土真宗の本山が、本願寺(ほんがんじ)です。室町時代の終わり頃、とても寂(さび)れていた本願寺を再興させたのが、蓮如上人(れんにょしょうにん)でした。

蓮如上人が廊下を通ったとき、紙切れが落ちていました。それを拾われ、両手で抱かれてから、「仏様からの頂き物をムダにしてはいけません」と言われました。
要らなくなった紙切れ一枚にも、仏様の愛情によらないものはないというわけです。

広島県三原市に仏通寺という立派なお寺があります(臨済宗仏通寺派大本山)。
かつて戦国時代に、小早川氏や毛利氏など、名高い大名の保護を受けました。

このお寺に、仏法(ぶっぽう、仏様の教え)を学ぼうという二人の若い雲水(うんすい、禅の修行僧)がやってきました。有名な仏通寺なら、きっといい修行ができると思ったのです。

さて、お寺の山門までたどり着いたら、門の前に流れている谷川に、一片の菜っ葉が流れてきたのが見えました。食べられる菜っ葉を捨てるとは、なんという無駄(むだ)づかいをするお寺だろうか。野菜の一片とはいえ、仏様から頂いた大切な物を生かさないような所では修行にならない。このお寺の仏法は、もう滅(ほろ)んでいる。ここに止(とど)まって学んでも、何も得るものがないだろう。そう思って、二人の雲水は山を下りようとしました。

すると、青い顔をした僧が、お寺から走り出てきました。とても、あわてています。僧は二人の雲水に向かって「今、この川に、菜っ葉の破片が流れてきたのを見ませんでしたか」と聞きました。

菜っ葉は捨てたのではなく、洗っているうちに、うっかり流してしまったのです。そのようすを見て、二人の雲水は大いに感心し、仏通寺に長く滞在(たいざい)して、仏法の奥義(おうぎ、奥深い道理)を極(きわ)めました。

こうして、菜っ葉の破片一つの扱い方にも、仏法の興廃(こうはい、興るか廃れるか)が関わっていることを思いますと、一個一個の物が、それぞれ深い意味を持っているということが、よく分かるでしょう。本当に素直に考えてみるべきことです。

鎌倉時代には、執権(しっけん、鎌倉幕府の最高権力者)となった北条時頼の母(松下禅尼)が、我が子の時頼を迎えるとき、障子(しょうじ)の紙の破れたところだけ修繕(しゅうぜん)しておきました。権力者となった息子に、物を大切にする心を教えるためでした。

日露戦争(明治37年に起きたロシアとの戦争)を勝利に導いた乃木希典(のぎまれすけ)大将は、顔を洗うときの水の無駄づかいを注意されました。
また、お弁当の握り飯を包むための竹の皮(タケノコの皮)は、破れて使えなくなるまで大事に使用されました。

それから、明治時代の産業の発展に尽力(じんりょく、力を尽くすこと)した渋沢栄一という人がいて、経済と道徳の一致を唱えました。経済はソロバンで、つまり利益を上げること。道徳は『論語』の教えであり、真心や正義を重んじ、物を生かすことです。渋沢氏は、便所(べんじょ、トイレのこと)の小さな灯りも、ムダに点(つ)けておかないよう戒めました。

このように、昔から立派な人物は、一人の例外もなく、物それぞれの特性や価値である、物格(ぶっかく)を尊重されていたことが分かります。人間に人格があるように、物にも物格があるのです。(続く)