No.72 忠義を尽くそうという思いは、世界人類に共通した大道

2 忠君愛国と諸外国(ちゅうくんあいこくとしょがいこく)

この頃、君主に忠義(ちゅうぎ)を尽(つ)くす精神や、国を愛する心が薄らいできました。忠君愛国(ちゅうくんあいこく)などと唱えると、とても古くさい者のように思われてしまいます。でも、古いと決めつけてしまうのは、むしろ浅薄(せんぱく、浅くて薄っぺらなようす)なことだと言わねばなりません。※「この頃」というのは、今から90年くらい前のことです。

まず分かって欲しいことは、本当の君主が存在しているのは日本国だけだということです。外国の場合は、革命(かくめい)や大きな政変(せいへん)によって、元首(げんしゅ、その国を代表する者)が次々交替(こうたい、入れ替わること)してきました。激しい革命が起きれば、それまでとは別の国が生まれることになるのです。

本当の君主が存在していれば、そういうことは起きません。社会が動揺(どうよう、揺れ動くこと)し、その仕組みが老朽化(ろうきゅうか)しても、その都度(つど)新しい政治に移るだけで、国家の根幹(こんかん)まで倒れてしまうことはありません。

本当の君主がいなければ、本当の忠義の心が生まれないのは全く当然のことでしょう。でも、どの国も国民の幸せのために、本当の君主が欲しいはずです。また、本当の忠義を尽くしてみたいはずです。

そうは言っても、革命が起きる前の昔に返ることはできません。歴史を、神代(かみよ)の時代からやり直すことも不可能です。そこで、仕方(しかた)なく仮(かり)の君主に選んで、仮の君主に忠君であろうとするしかないのです。

そうして、外国においても法律や教育によって、あるいは宗教による信仰心も用いて、何とか大統領などの中心者の本(もと)に、国家が一つにまとまるよう努力しているのです。従って、忠義を尽くそうという思いは、決して日本の古い時代にのみ存在した精神というわけではなく、実は世界人類に共通した大道(だいどう、堂々と歩む道のこと)であることが分かります。

私(林平馬)は前章で、外国では反逆(はんぎゃく)が認められていると言いましたが、彼らとしても心から反逆を喜んでいるわけではないと思います。天が与えてくれた徳の高い人物が中心に立ち、自然に君主となっているわけではないから、力を持っている者が旧体制(きゅうたいせい)を倒し、政治権力を手に入れれば中心も移動し、それに合わせて忠義を尽くそうとするしかないのです。

これは同情(どうじょう、相手を思って悲しい気持ちになること)すべきことです。外国では忠君(ちゅうくん)が否定されているというよりも、忠君に生きたくても、それを徹底(てってい)できないところに悩みがあるのです。

そして、忠義を貫く心の清らかさを共感(きょうかん)し合えるような、国民的体験(こくみんてきたいけん)が乏しいのだろうと思われます。ある友人が私に問いました。「君、本当に親は有り難い(ありがたい)ものなのかい?」と。その友人は、とても頭脳明晰な秀才で孤児でした。孤児だから、親から愛情を受けた経験がありません。これと同じで、立派な君主がいない国では、君主から頂く愛情を知りませんから、忠義の感情を持ちにくいのも当然だろうと想像します。(続く)