その28 大国の隋に対して、対等外交を行った聖徳太子の本氣

◆聖徳太子の大局

聖徳太子の当時、世界情勢を最も大局的に掴んでいたのは、ほかならぬ太子自身でした。大陸には、久し振りの統一王朝である隋が誕生しています。朝鮮半島では新羅が強くなり、高句麗は隋と対立状態にありました。

繰り返しますが、そういう中で混迷している日本を再生し、さらに理想へ向かって興隆させるには、仏教の導入が不可欠でした。当時の仏教は、東アジアにおける先進文化そのものであり、既に仏教を共通基盤とする外交が始まっていたからです。そうした世界情勢の変化を、太子は大局的に把握しておりました。

東洋思想と仏教思想の本質を深く学んだ太子には、東アジアに起こる変化が我が事だったというわけです。

◆聖徳太子の本氣

対外的には随との対等外交、対内的には統一国家の建設。これらに聖徳太子の本氣が現れていました。

古墳時代最盛期であった「倭の五王」時代、我が国は大陸の南朝に度々(たびたび)使者を送り、倭国王や安東大将軍という称号を貰い受けていました。大陸国家の権威を用いることで、朝鮮諸国への政治的立場を優位にしようとしたのです。

しかし、形式的とはいえ、称号を受けることは大陸への臣従を意味します。太子は、これをどこかで断ち切りたかったはずです。

そういう願いで隋に使者を送り(西暦607年)、国書に「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」と書きました。日本は日の出る国、隋は日の沈む国と表したのですから、大変不遜な文章でした。でも、日の出や日の入りは、東と西を示す言葉に過ぎません。それ以上に問題であったのが、「天子」が二人いると記したことです。

天子とは、天の命ずるところによって天下を治める者のことで、それは地上に一人しか存在しません。天子は一人というのが中華思想(チャイナが世界の中心であるという考え方)の常識だったにも関わらず、国書には東にも天子がいると書いたのですから、隋の皇帝が怒ったのも当然です。

太子は、東アジア情勢を冷静に読んでいました。隋と高句麗は対立状態にあり、日本に圧力を掛けられる余裕は無い。むしろ、日本と外交関係を結ぶことで、高句麗への牽制が可能となるはず。太子は、そのように判断し、今がチャンスと見て対等外交に踏み切ったのです。

国書を携えた遣隋使は小野妹子でした。大国の隋は、日本を東方の野蛮国と見ていました。我が国は東夷(とうい)の国と蔑まれていたのです。これを、どう見直させるかです。それには、使者が重要でした。小野妹子は、見た目といい、物腰といい、言葉遣いといい、実に立派で素養の高い人物であったに違いありません。

けしからん国書を持参して来たものの、使者は決して野蛮人ではない。いや、我が国にも滅多にいないほど優れた人物だ。こういう使者を送り出せる日本とは、一体どういう国なのか。隋の皇帝の煬帝は、そのように思ったことでしょう。

そこで煬帝は、小野妹子が帰国するときに、裴世清(はいせいせい)という答礼使をつかわします。裴世清の役割は、日本の国情を調べることにありました。

そして、裴世清が隋に戻るときに、小野妹子を再度隋に送り(西暦608年)ます。このときも国書を持参しており、それには「東天皇、敬みて西の皇帝に白す」と書かれていました。また、8名の留学生を同行させました。その留学生の中から、やがて大化改新のブレインが育ちます。(続く)