その29 統一国家の建設に本氣となった聖徳太子

それから、もう一つの本氣が「統一国家の建設」です。豪族による私地・私民の奪い合い、蘇我氏と物部氏の対立による内乱、さらに崇峻天皇の暗殺によって、皇室の権威は地に落ちていました。

内外に危機を抱える中、太子は日本のミナカである天皇の権威を何としても復活させたいと願い、合わせて大陸や半島の国々に負けない統一国家の建設を志しました。そこで「憲法十七条」の第三条に「詔を受けては必ず謹め」と二度も記し、天皇のお言葉(詔)を受けたら必ず受け入れるよう人々に促したのです。

そして、君は天であり、臣は地であると述べます。天が国家を覆(おお)い、地が国民を載せてこそ、春夏秋冬の季節が巡り、あらゆる働きが滞ることなく通じ合う。しかし、地が天を覆わんとすれば、国家は破れ国民は苦しむことになるばかりだと。

◇日本仏教は聖徳太子が創造◇

また、統一国家の建設のためには、国民の意識レベルの向上が必要です。「仏教興隆の詔」が出されたのは、そのためでした。

仏教に着目した太子は、『勝鬘経義疏(しょうまんぎょうぎしょ)』を著し、女性でも仏道修行に励めば、目覚めた人(仏陀)になれるということを教えました。次に『維摩経義疏(ゆいまぎょうぎしょ)』を著して、自分一人が救われるだけの小乗仏教では不十分なことを示し、さらに『法華義疏(ほっけぎしょ)』によって、個人救済の「小乗」と社会救済の「大乗」を統一する「一大乗」の精神を表しました。

これらを「三教義疏(さんぎょうぎしょ)」(※「義疏」は意味の説明)といいます。出家・在家、男女の別なく、誰でも覚ることが出来るという「平等の精神」と、相手に楽を与え・相手の苦を取ること喜びとする「慈悲の精神」、それらをまとめた「統一の精神」が示されたのでした。その内容は、太子自ら講義されたそうです。

もともと仏教は裏観(りかん)が強く、欲望を否定する消極的傾向が見られます。その仏教が持つマイナス面を克服し、現在・現実・実在を重視する日本精神を注入することで、太子は「日本仏教を創造」したのです。聖徳太子が日本仏教の開祖と称えられ、最澄・空海・親鸞・日蓮らに大きな影響を与えたのも当然のことと言えるでしょう。

なお、聖徳太子の改革政治の中で、「仏教興隆の詔」だけでなく「敬神の詔」も出されました。これは、伝統精神であるカムナカラの道(神道)を大切にするための詔です。我が国固有の神道が尊ばれるのは当たり前のことであり、特に言挙げする必要はなかったのでしょう。ところが次第に仏教に偏る傾向が見られたために、注意を促す意味で出されたのではないかと思います。太子が仏教ばかり重んじ、伝統の神道を軽んじたというのは、全くの誤解であるということを申し添えておきます。(続く)