その30 聖徳太子の徹底

聖徳太子の「徹底」で、まず挙げるべきは「憲法十七条」の制定です。その内容は、仕事の指針と臣下の心得でした。とにかく仲良く和して勤めるよう、懇切丁寧に諭しています。

それから「冠位十二階」の制度があります。これは、優秀な人材を見出し、本人一代に限って身分を上げて登用するための制度です。そのような仕組みを作った理由は、身分の高い層に優秀な者が少なく、身分の低い層に俊才が存在するようになっていたところにあると考えられます。社会秩序が入れ替わる過渡期には、そういう現象がよく起こります。そこで聖徳太子は、門閥を打破し、優れた者を積極採用出来るよう、この制度を定めたのです。

◇1400年近く前、日本を救うために帰ってきてくれた留学生たち◇

それから、留学生(るがくしょう)の隋への派遣を挙げたいと思います。隋からの使者である裴世清が戻るとき、小野妹子を再度隋に送りました。その際、8名の留学生を同行させました。その中から3名が帰国し、大化改新のブレインとなります。

3名の名は、僧の旻(みん)、高向玄理(たかむこのくろまろ)、南淵請安(みなぶちのしょうあん)です。旻は24年間、玄理と請安は32年間の長きに渡って隋→唐に滞在し、大陸の進んだ国家理念・政治制度・経済システム・官僚機構・法体系・文化思想などを学びました。

旻の帰国は西暦632年、玄理と請安の帰国は西暦640年です。そのとき、留学を命じた聖徳太子は、既にこの世を去っていました(西暦622年没)。さらに、太子に続いて蘇我馬子が亡くなり(西暦626年)、推古天皇もみまかります(西暦628年)。

日本国内では、蘇我蝦夷(えみし)・入鹿(いるか)らによる専横が起きていました。蘇我一族に、王家同様の振る舞いが見られたのです。

もはや留学生たちに、日本に帰る義理はありません。帰国を拒む理由は、いくらでも言えたことでしょう。もう年老いたし、大陸に家族も出来た。まだ唐の国で学びたいことがあるなどと。

しかし彼らは、大陸に留学した原点を忘れていませんでした。日本を改新するため、日本海を渡って帰ってきてくれたのです。

日本に戻った請安は、儒教などを学ぶ塾を開きます。そこに、大化改新を起こすことになる中大兄皇子や中臣鎌足が通い、蘇我氏打倒を謀りました。また、旻と玄理は、大化改新のブレイン(国博士)に任ぜられます(請安は、間もなく没したそうで、国博士には就いていません。改新時には病気だったのだろうと思われます)。(続く)