その31 大化の年号によって、日本の自立を内外に宣言!

さて、大化改新(西暦645年)とは一体何だったのでしょうか。一言で言えば、豪族連合政権による社会秩序を終わらせ、新たに中央集権的な社会秩序を始めるための誕生点でした。

豪族連合政権によって形成されていたのが、氏姓制度による「古墳時代の社会秩序」です。氏姓の「氏」は葛城氏・大伴氏・物部氏など各豪族が名乗る「氏(うじ)」、「姓(かばね)」は「臣」「連」「直」など朝廷から頂く称号のことです。これに中央政府から認められる「前方後円墳」築造のライセンスが加わって、連合政権体制が維持されていました。

ところが、どんな制度も必ず老朽化します。豪族による私地・私民の奪い合いが激化し、没落農民が増加してくれば、もはや国家の基盤そのものから改革するしかありません。そのために、新たな中央集権国家を建設する必要が高まってきており、その障害となっていたのが蘇我氏だったのです。

日本書紀によれば、蘇我氏の蝦夷や入鹿らは、天子だけが用いることの出来る舞(八?の舞い)を、先祖霊の祭祀で舞わせました。また、自分たちの墓を「大陵(おほみささぎ)」「小陵(こみささぎ)」、邸宅を「宮門(みかど)」、一族の子らを「王子(みこ)」と呼んでいます。これらの事実は、蘇我氏の専横がかなり進んでいたことを如実に示しており、それは蘇我王朝が誕生していたと言っても過言ではない事態でした。

そこで、我が国の政治を本来の姿に戻すため、西暦645年6月12日、改新派は蘇我入鹿を皇居板蓋宮(いたぶきのみや)で誅殺します。ちょうど朝鮮三国の使者が天皇に上表する儀式があったので、そのときを利用して断行されました。蘇我入鹿の父である蝦夷は自邸で自決しました。

そして、7日後の19日には、諸豪族が集まって天皇への宣盟の儀式(大槻樹(おおつきのき)の下の誓い)が行われ、年号を「大化」とします。大化は我が国が初めて定めた年号であり、日本が自立した国家であることを内外に宣言したわけです。このように大化改新は、念入りな準備によって進められたことが分かります。(続く)