その32 大化改新の仕掛け人は聖徳太子

さて、大化改新によって豪族による私地・私民が廃止され、国民には一定の田畑が支給されることになりました(班田収授)。豪族たちの既得権益を没収する、一種の共産主義的大改革を断行したのですから凄いことです。政治は中央集権的な体制に改められ、新しい国づくりが進むことになりました。

そうして成立したのが、「氏姓制度の社会秩序」に替わる「律令体制の社会秩序」です(律令の「律」は法律、「令」は制度)。この秩序は、次第に変質しながらも、奈良時代を経て平安時代末まで続きます。

結局、氏姓制度の社会秩序から、律令体制による社会秩序へ移行する谷間(過渡期)の前半に、改新政治の基盤を創ったのが聖徳太子だったのです。大化改新を仕掛けたのは、ほかならぬ聖徳太子であったということが、よくお分かり頂けると思います。

大化改新のブレインとなった3名の留学生ですが、3名とも大陸から渡来した人々の子孫でした。異国出身の先祖を持つ彼らが、日本のために人生を賭けて働いてくれたことに感激します。そうさせた聖徳太子の人徳にも感動しないではいられません。

◇聖徳太子が不在であったという説があるが…◇

ところで、聖徳太子が不在であったという説があります。その理由は、諸文献の記述に見られる不正確さにあるようですが、何しろ古い時代のことですから、はっきりしない点があっても仕方の無いことです。

もしも聖徳太子が不在ならば、太子の行った政策の一つ一つを、どこの誰が考えつき、そして実行したのでしょうか。太子のような深い学問と思想、ならびに政治家としての識見と胆力を、他の誰が持っていたかと。

転換期の危機的事態を解決するには、諸問題を綜合的に俯瞰し、問題それぞれの核心を的確に掴み、今後の流れを見通しつつ大方針を立て、大局的に戦略を練ることの出来る天才的指導者が必要になります。聖徳太子のような天才がいなくて、推古朝における諸改革が推進されるはずがありません。

方針が決まれば動けるとか、部署を与えられたら能力を発揮出来るという人は沢山います。そういう人は、いわゆる秀才タイプです。大局を見据えて方針を決め、綜合的に戦略を練っていくという作業になると、単なる秀才タイプでは難しくなります。それが出来るのは、一握りの天才的指導者です。日本史上では、聖徳太子と織田信長と小村寿太郎が、そういうことの出来た天才的政治家でした。(続く)