その33 信長が本願寺と戦い、延暦寺を攻めた理由

◆織田信長の原点
織田信長の原大本徹についても、簡単に述べておきます。信長は内紛だらけの尾張に育ちました。弟を殺さなければ収拾が付かないほどの分裂状態にあったのです。その生い立ちが原点となって、統一への強固な意志を持つようになりました。

◆織田信長の大局
信長は、日本全体を視野に入れ、ゴールから天下布武を発想出来た武将でした。ゴールは京都に入ることにあり、それを上洛と言います。京都から逆算すれば、近江を押さえることや、美濃を取ることの必要性がよく見えきます。隣国との局地的な戦いに明け暮れた他の武将に比べ、信長には全体を見渡せる広い視野がありました。だから本拠地を尾張から美濃(岐阜城)へ、さらに近江(安土城)へと移していったのです。

また、世界的視野を持っていたことも信長の大局です。キリスト教宣教師(バテレン)らが持って来た世界地図を眺め、地球が丸いことも理解したそうです。

安土城の天主は、地下1階・地上6階の豪壮な建築物でした。最上階は金閣、その下は夢殿を模していました。それぞれの室内は「中国思想の間」と「仏教思想の間」になっており、信長が東洋思想を綜合しようとしていたことが分かります。信長の大局が世界大であったことは間違いのないことです。

◆織田信長の本氣
信長の本氣は、ズバリ「天下布武」にありました。天下布武は天下統一と同じ意味です。

その本氣は、一向宗(本願寺)や比叡山との戦いにも現れています。一向宗は各地で一向一揆を起こし、北陸には“独立国”を作るほどの実力がありました。そのままでは天下布武の妨げとなるので本願寺と戦ったのです。

それから、よく知られている比叡山の焼き討ちですが、実は本坊や根本中堂は焼いていないようです。全国に末寺ネットワークを巡らせ、広大な荘園を持ち、多くの僧兵を抱える延暦寺は、既得権益の固まりであり反信長勢力の拠点ともなっていました。

信長は、宗教としての一向宗や天台宗(延暦寺)を否定していません。政治に介入する宗教勢力に対して、断固たる態度を貫いたのです。悪名を残してでも、天下布武の障害となっている勢力を取り除くとところに、信長の本氣があったというわけです。(続く)