その34 信長による、天下統一への知恵と工夫

◆織田信長の徹底

信長は、使えるものを残さず生かし切るよう、知恵を働かせ工夫に努めました。それが信長の徹底であり、35歳で上洛するときは足利将軍のブランド力を利用します。足利将軍の地位は、既に地に落ちておりましたが、僅かながら権威が残っていました。

信長に「時の運」が働きます。室町幕府再興を志す足利義昭が、信長を頼ってきたのです。信長は、これを助ける形で上洛を果たし、義昭は第15代将軍に就きます。喜んだ義昭は、信長に副将軍の地位を授けようとしますが、信長はそれを受けません。

もはや足利将軍の地位では天下統一が不可能なことくらい、信長にはお見通しでした。過去の権威でしかない室町幕府の、しかも副将軍の地位を貰ったところで、却って自分の価値を下げるだけだと思っていたに相違ありません。信長の志は、もっと遠大なところにあったのです。

信長の工夫による徹底は、鉄砲の本格使用に現れます。鉄砲には欠点があり、一発撃つと砲身が冷えるまで二発目を撃てません。この欠点を克服するため、鉄砲隊を三列に分け、順繰りに撃たせたのです。長篠の戦いで連射方式を用い、最強であった武田騎馬軍団を壊滅させることが出来ました。

大砲を備え付けた「鉄貼りの巨大軍艦」を造ったのも工夫でした。海戦の際、敵の射る「火の付いた矢」で燃やされないよう鉄貼りにしたのです。鉄は重いし錆びるから、船に貼ろうとは誰も思いませんでした。しかし、浮力とのバランスを取れば重くなっても沈みません。錆びてしまえば船は役に立たなくなりますが、敵に勝利したら後は不要という実用主義に徹したのです。これによって、天下無敵であった毛利水軍を撃退しました。

安土城築城も徹底の一つでした。地下1階・地上6階の大天守は、信長によって天下統一が進められていることを日本中に示しました。哲学や理念の分からぬ人間も、目に見える巨大な建造物には圧倒されます。国民全ての目を集めるための徹底が、安土城の建設だったのです。

楽市楽座もそうです。誰でも市場に出店して構わないというのが楽市、同業者組合への新規参入を拒まないというのが楽座です。まさに自由な経済活動の奨励とベンチャーの育成でした。また関所撤廃は、人・物・金・情報の流通を円滑化させ、自領を富ませる求心力を起こしました。これらが、信長による経済政策としての徹底です。

それから、兵農分離によって、いつでも戦える戦闘集団を組織しました。それまでの武士たちは、与えられた土地に住んでいるのが普通で、身分にもよりますが普段は農作業を行っています。だから、農繁期には農業に勤しみ、農閑期になってから戦うというのが一般的な姿でした。

でも、そのままでは、いざ戦いとなったときに準備と集合に時間が掛かります。そこで信長は、部下たちを城下に居住させることによって、土地(農業)と分離させました。そうして兵と農を分けることによって、一年中戦える集団を組織したのです。時間を味方に付けたというわけです。

方面軍制度を創設したのも、時間を味方に付けるための工夫でした。北陸・関東・中国・四国、各方面に軍隊を編成し、全国同時進行で天下統一を進めていったのです。これらが、信長の知恵と工夫による徹底でした。(続く)