その37 これは昔のことだが、今なら、そして君ならどうするか

◆吉田松陰による本氣の立志教育

吉田松陰の本氣は、何よりもその行動に現れます。失敗はしたものの、この目で西洋文明を見てやろうと志してペリーの黒船に乗り込み、そのままアメリカに連れて行って貰おうとしました。鎖国の時代に、この本氣の決行は凄いことでした。

松陰の幕府への対応ですが、最初は幕府を諫めればいいと考えていました。ところが、幕府が朝廷の許しを得ないで日米修好通商条約を結んでしまい(違勅調印)、さらに安政の大獄で幕政改革派や尊王攘夷派を弾圧するに及んで、もはや討幕しかないと思うようになります。

そこで企てたのが、京都で朝廷を厳しく取り締まっていた老中・間部詮勝(まなべあきかつ)への要撃(ようげき)策です。同志17名と血盟して決起しようとしたこの暗殺計画は、未遂に終わるものの、大老・井伊直弼の怒りを買って松陰は死罪となりました。

『講孟剳記』という本は、野山獄という獄舎内で「孟子」を輪講した際の、その研修内容を松陰がまとめたものです(下巻は出獄後に続きをまとめたもの)。その中に、チャイナ戦国時代の魏王を批判する文があります。

後を継いだばかりの若き王は、政治を他人事のように思っており「世の中これからどうなるのかなあ」とのんびりした様子で語っています。その頃、魏の国は周囲の大国から圧迫を受けており国難のときにありました。

そこで松陰は「天下いづくにか定まらんと云ふは世上話なり」(『講孟剳記』)と述べ、他人事のように政治を語るのは世間話に過ぎず、このようなたわけ者と、どうして共に語れようかと非難します。そして「そもそも有志の人、言語自(おのづか)ら別なり」(『講孟剳記』)と記して、志の有る人ならば、語る言葉が違うはずで、もっと本氣さが現れているはずだと叱りました。

松陰は歴史を講義するとき、地図を開いて教えたと述べました。これは昔に起きた戦だが、もしも今なら、そして君ならどうするかと問い掛けます。そうして何事も他人事と思わせぬよう導き、一人ひとりに志を立てさせたのです。

吉田松陰は20代の後半が活動期でした。しかし、その半分は牢獄の中にいるか、護送の途中でした。そういう境遇を「吾が輩逆境の人」(『講孟剳記』)と素直に受け止め、「志士は溝壑(こうがく、溝や谷)に在ることを忘れず」(『講孟剳記』)と記して命懸けの覚悟を示しておりました。(続く)