その65 後の時代になるほど、学者たちが小賢しく分類して分かり難くなる

本性(性)が発動して「意」になり、「意」が具体化して「情」が現れます。そして、これら性と意と情が合わさって「人の心」になるということを述べました。この説明で頭の中がスッキリ整理された人もいるでしょうが、何だか理屈っぽくて分かり難いと感じた人も多いことでしょう。

江戸時代初期の大学者であった山鹿素行も、同じことを感じたようです。そこで、理論的に考え過ぎたり、細かく分け過ぎて部分に囚われたりすることを戒めました。性や情は、無理に切り離さないで「心(しん)」の一字にまとめればいいという指摘です(『聖教要録』)。

チャイナの宋代の学者であった朱子も、細かく分ける学者の一人でした。朱子は「心」と「理」を分け、心というものを五感に囚われ欲望に流され悪に染まる感情そのものと見、もっと奥深くにある本性(性)が本体(理)であるとしました。これが有名な「性即理」説です。

これに対して明代の学者である王陽明は、人間的な喜怒哀楽の感情を起こす心こそ本体であるということから「心即理」を唱えました。

そして、山鹿素行は素直に人間を観て、心の中に性も情も備わっているという考え方に立ったのです。孔子などの聖人は、性や情や理や心などの意味を、元々細かく分けてはいなかった。それなのに、後の時代になるほど学者たちが小賢しく分類したため、抽象化されて却って分かり難くなったと。そこで、孔子の教えの原点に戻ろうというのが素行の立場だったのです。

この部分に囚われることなく全体を観、それぞれの言葉の意味を生かしていこうとするあり方こそ、まさに綜學の立ち位置に他なりません。

◇正しい怒りを行動の種とせよ!◇

さて、「意」が「情」を起こし、情が使命感を導けば「志」となります。それが「意志」であり、大和言葉では「真魂(まみたま)」と言います。「ま」は誠・正に・学ぶの「ま」で真理を表しており、真魂は行動する意識のことです。

この行動する意識に至らなければ、勉学も学習も無意味で終わってしまいます。それどころか、どんどん増える知識に邪魔され、益々身動きが取れなくなっていくでしょう。

そういう人に起こして欲しい「情」が、喜怒哀楽の中の「怒」です。ただぼんやり思うだけの状態を打ち破り、すっくと立ち上がる自分を導くのが怒の情なのです。勿論、それは些細な事に対する個人的な怒りではなく、あくまで公憤や義憤といった怒りであるべきです。

が、どうも現代人には不感症が多く、怒があっても小怒や細怒に過ぎず、大怒と言うべき感情に乏しいように思います。正しい怒りを行動の種として、もっと世の中を変えていかなければ、生きていてもつまらないではありませんか。

人生、このまま為すところ無く終わるわけにはまいりません。こせこせ小さくまとまること無く、お互い殻を破って脱皮しましょう。

ときには安全地帯から抜け出すことも必要です。相手に斬られるところまで間合いを詰めなければ、こちらの刀の切っ先は全然届かず、相手を斬ることが出来ません。意志があれば、必要なときにきっと踏み込めるはずと思うのです。(続く)