その66 武士道の大成者と言われる山鹿素行は、まさに綜學の先達

武士道の大成者と言われる山鹿素行は、まさに綜學の先達です。21歳で兵学師範となるものの、素行にとって技術論的な兵学は一つの余技に過ぎません。素行は哲学思想を幅広く学び、その学問は神道・国学・国文学・儒学・老荘・禅仏など多方面に及びました。

そして、30数歳頃までが三教一致時代でした。三教は儒学・老荘・禅仏のことで、素行はこれらを合わせて探究し、綜合させつつ講義に努めました。そもそも「無」を説く老荘思想と、「空」を教える仏教思想には共通点があります。目に見える現実世界を超越し、目に見えない真実の世界を探究しようとする点です。

その老荘と仏教が持つ、物事の奥深い本質を掴もうとする姿勢は、武士たちにとって、つまらない欲を捨てて腹を据え、大悟に生きる上で大いに役立ったはずです。儒学の帝王学、兵学の戦略論と共に、素行のその多方面に亘る講義は、大名や旗本らにとって有益な人生講話になったのです。

ところが、30歳を超えて、老荘や仏教の問題点に悩んできました。何もしない「無為(むい)」こそ理想と説く老荘思想は、一歩間違えば心棒の抜けた世捨て人を育ててしまいます。迷いからの「解脱(げだつ)」を導こうとする禅仏は、自分一人の悟りに意識を向かわせ、心が内向きになって現実世界から遊離させていくのです。

老荘と仏教の思想自体が悪いのではなく、受け止め方や学び方によって役に立たなくなるということが問題なのですが、素行は思い切ってこれらを捨てました。老荘と禅仏の教えは、いずれも武士の日常にとって実際的でないという結論を出したのです。

推測するに素行は、両者の裏観(りかん)の強さを心配したのでした。裏観は、物事の本質を裏から捉える観方のことです。この観方には、世間の常識や因習を離れることで、相手の見た目や肩書きなどに左右されなくなる効用がありますが、その反面、世の中の秩序や決まりを無視する、傍若無人な変わり者を生んでしまう可能性もあるのです。常に顰蹙(ひんしゅく)を買っては嫌われるような、鼻つまみ者を育てる恐れがあると。

その結果、武士として持つべき威厳や正すべき威儀、尊ぶべき正義を忘れさせてしまう弊害の存在に気付いたというわけでしょう。(続く)