その68 知に深く、情に厚く、意に強い綜學の人

朱子学への批判は、幕府の御用学問への攻撃であり、それはご政道に対する抗議に他なりません。幕府から何らかの処罰を受けることは必定で、師の身の安全を心配した弟子たちは『聖教要録』の出版を止めようとします。

しかし、師の山鹿素行は本氣でした。学者として命懸けだったのです。「真理は懐にしまっておくものではない。聖人の教えの原点に戻り、これを天下に広め、後生の志士たちに期待するところに私の志があるのだ」と決意を告げました。

素行は、最高に意志強固な人でした。知に深く、情に厚く、意に強い人だったのです。

結局この一書によって、素行は赤穂藩へ流罪となりました。赤穂藩は、31歳から39歳の頃の素行を、千石の高禄で客臣分に迎えていました。その後、自由な学問研究のために、赤穂浅野家の禄を辞退していた経緯があります。

だから、この流罪は今一度師を迎えられるということで、実は藩としてとても喜ばしい出来事でありました。藩士らにすれば、素行から直に学べる絶好の機会ともなります。後に47名の赤穂義士を率いて吉良邸に討ち入りをする大石内蔵助も、若き門弟の一人となっています。

『聖教要録』の出版は44歳、赤穂流罪は45歳のときでした。もはや世間的な出世欲や名誉欲に囚われる年齢ではなく、一層学者として真理の探究に努めていきます。

この赤穂時代に、素行の思想は最終段階の「日本学大成時代」へ到達します。素行は48歳のとき、『中朝事実』を書き上げます。中朝の「中」は中心、「朝」は本朝で我が国を意味します。

支那(チャイナ)は自国を「中華」と呼んで尊んでいるが、支那は革命が連続する断絶の国であって中心が定まっていない。それに比べて我が国は、神代以来皇統(天皇の血筋)がずっと続いている中心国家であると。そうして、日本国こそ中心を名乗るに相応しい国であるという事実を、丹念にまとめ上げた本が『中朝事実』でした。

山鹿素行の教えは、赤穂義士に影響を与えたばかりでなく、幕末維新や明治の国家建設の原動力ともなります。長州の松下村塾の創始者である玉木文之進は、山鹿兵学の相伝者として、甥の吉田松陰や親戚にあたる乃木希典(後の陸軍大将)を教育しました。『中朝事実』を座右の書とし、戦前の素行会会長であり学習院院長でもあった乃木希典は、後に昭和天皇となる皇太子殿下(満11歳)へ、重要箇所に朱筆を入れた同書を献上しています。また、東郷平八郎元帥も山鹿素行を研究していました。

以上のように山鹿素行の学問は、神道・国学・儒学・老荘・禅仏など、東洋思想全般に及びました。その到達点が、日本の原点だったというわけです。素行の歩んだ、全体から原点に辿り着くというあり方も、綜學的探究の一つの姿と言えるでしょう。

なお、山鹿素行の学問の変遷と区分については、佐佐木杜太郎先生のご研究を元にしました(『現代人の山鹿兵法』久保書店)。筆者は、素行会(山鹿素行研究会)などで佐佐木先生から数回ご指導を受けています。

佐佐木先生をご紹介下さったのは、筆者の大和言葉の師である河戸博詞先生です。河戸先生は素行会の事務局を担われ、『中朝事実』の戦後復刻版を出されています。

また、偶然にも佐佐木先生のご子息が、筆者の出身高校の国語科教師でした。その同僚教師の中に居合道の達人である金子孝先生がいて、ご子息は金子先生から居合道を学ばれていました。ご子息は私が入学したときには他校へ転勤となっていましたが、筆者も金子先生から居合道の指導を受けたことから縁がつながり、親しくさせて頂いた次第です。これらの学統と人のご縁に、しみじみと有り難さを感じます。(続く)